FC2ブログ

ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

麗子と直子の不感症

『ノルウェイの森』の直子も三島由起夫の『音楽』の麗子も不感症である。直子は性交痛をともなった不能であり、麗子は性交可能であるがオルガスムを得られない。

『音楽』は精神科医汐見と不感症の患者麗子をめぐる物語である。作者の三島由紀夫は精神分析を研究しており、患者の麗子も精神分析の知識を持っている。そういうわけで、汐見と麗子は作者三島の操り人形になって精神分析ごっこをすることになる。教科書どおり転移現象などもあって、めでたく麗子の不感症の理由が判るという、ちょっと出来の悪いパロディ風の娯楽小説になっている。

いささかリアリティに欠けるとしても、麗子はいちおう治癒し、オルガスムスを得られるようになるが、それに比べ『ノルウェイの森』の直子の不感症は最後まで謎のままだ。東京でワタナベと再会してからの直子は離人症的なところがあるように描かれているけれど、他方では直子の誕生日に一度だけ挿入ができて、ワタナベは「それまでに聞いたオルガズムの声の中でいちばん哀し気な声」を聞くのだ。

直子の病が器質的なものであれば、その心理的な理由を探ることは無意味なことだけれど、一度はワタナベとのセックスに成功するのだから、直子の不感症は心理的なものだとも考えられる。以下、療養所でのワタナベと直子の会話。

「どうして私濡れないのかしら?」と直子は小さな声で言った。「私がそうなったのは本当にあの一回きりなのよ。四月のあの二十歳のお誕生日だけ。あのあなたに抱かれた夜だけ。どうして駄目なのかしら?」
「それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせることないさ」
「私の問題は全部精神的なものよ」と直子はいった。「もし私が一生濡れることがなくて、一生セックスができなくても、それでもあなたはずっと私のこと好きでいられる?ずっとずっと手と唇だけで我慢できる?それともセックスの問題は他の女の人と寝て解決するの?」(下巻P185)

おかしなジレンマである。好きだということは相手に欲望を持つということだ。ワタナベは直子に欲望を持っている。しかし、直子は性交不可能だから、手と唇で満足する。他方、直子は濡れないのだから、ワタナベくんに欲望を感じていない。それなら、好きでもない相手に「性的サービス」をするのはなぜか。直子が言うとおり、ただ、自分が死んでも、自分のことを忘れないで欲しいだけなのか。それとも愛があるからなのか(w)。

もちろん精神的な愛もある。欲望があっても不能ということもある。直子は「私の問題は全部精神的なものよ」と言う。しかし、はっきりした理由は判らない。ただ、直子は「私はただもう誰にも私の中に入って欲しくないだけなの」といって自殺してしまう。直子の姉も自殺している。直子の父親は、自分の弟も自殺しているので、姉娘の自殺は遺伝的なものかもしれないといっている。

直子の不感症は心理的なものでも生理的なものでもなく、存在論論的不感症だと言えばもっともらしいが、統合失調症としか思えない。そう思ってワタナベと直子が初めて寝る日のところを読み返して見ると、村上は明らかに直子を統合失調症として描いている。

 直子はその日珍しくよくしゃべった。子供の頃のことや、学校のことや、家庭のことを彼女は話した。どれも長い話で、まるで細密画みたいに克明だった。たいした記憶力だなと僕はそんな話を聞きながら感心していた。しかしそのうちに僕は彼女のしゃべり方に含まれている何かがだんだん気なりだした。何かがおかしいのだ。何かが不自然で歪んでいるのだ。ひとつひとつの話はまともでちゃんと筋もとおっているのだが、そのつながり方がどうも奇妙なのだ。Aの話がいつのまにかそれに含まれるBの話なり、やがてBに含まれるCの話になり、それがどこまでもどこまでもつづいた。終わりというものがなかった。(上巻P81)

直子は四時間以上ノンストップでしゃべりつづけ、そして彼女の話はどこかでふっと消えるようにおわった。直子の話は隠喩的ではなく、換喩的だ。

 直子は唇をかすかに開いたまま、僕の目をぼんやり見ていた。彼女は作動している途中で電源を抜かれてしまった機械みたいにみえた。彼女の目はまるで不透明な薄膜をかぶせられているようにかすんでいた。(上巻P84)

疎通性障害の表情である。統合失調症が人と人との情緒的コミュニケーションに齟齬を来すとすれば、エロティックな関係にも影響を与えるだろうことは想像できる。しかし、村上春樹は内面描写はしないので、それはどんなものなのか分からない。

ワタナベは直子が精神を病んでいるのを知りながら、フェラチオをしてもらい二度目の射精をしたあと、とんでもないことに、直子の下着の中に手を入れて濡れているか調べるのだ。これでもワタナベくんはやさしいと言い張るのか。

服を着てからワタナベは言う。

「それから君のフェラチオすごかったよ
直子は少しあかくなって、にっこり微笑んだ。「キズキ君もそう言ってたわ」
「僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」と僕は言って、そして笑った。(下巻P186、強調:安積)

やれやれ、と言いたくなる。最初読んだとき、強調文字にしたところを「すごくよかったよ」と間違って読んだので、ワタナベが「ずっと手と唇だけで我慢できるよ」という意味で直子に言ったのかと思ったけれど、よく見たら「すごく良かった」ではなく「すごかったよ」だった。いったいヴァギナが濡れない女のフェラチオを「すごい」って、なにがどういう風にすごいのか。こんなことを不感症の女にいうことがやさしさなのか。キズキとのセックスを当てこすったとしか思えない。

ところが、直子も負けてはいない。にっこり微笑んで「キズキ君もそう言ってたわ」と挑発に乗ると、さらにワタナベが調子に乗って「僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」という。キズキは、直子の不感症が原因かどうかわからないけれど、自殺している。そして、キズキの自殺が直子の発病の原因ではないけれど、すくなくともきっかけだろうに、二人でこんな会話をするなんてちょっとおかしくないか。直子だけではなく、ワタナベも精神が病んでいるのではないかと疑われる。もちろん村上フアンにはこういう会話がたまらなく好きなのかもしれないが。

「すごいフェラチオ」と言えば、アダルトビデオのフェラチオだろう。ポルノ女優は感じてもいないのに「すごいフェラチオ」をしているではないか。アダルトビデオでいつも疑問に思うのは、女が男の乳首を舐める性技だ。どうしてあんな、擽ったくさえない、無意味なことをするのだろうと思っていたら、村上の女たちはしきりに男の乳首を愛撫する。たぶん村上はアダルトビデオのファンなのだろう。昔のブルーフィルムやピンク映画にはそんなシーンはなかったような気がする。これもフェミニズムの影響かもしれない。

もちろん、ワタナベくんが直子の口唇愛撫を「すごい」とほめたのは、直子の心を開こうとしているのかもしれない。神経症なら、フロイトの患者アンナ・O嬢のいう「煙突掃除」のような効果があったかもしれない。しかし統合失調症の直子の反応はただ感情の鈍磨をあらわしているだけだ。

神経症は、抑圧された「物語」が歪められ象徴化されバラバラになって表に出てくる。それを患者と分析者で再び「物語」に組み立てる。それに対して統合失調症には「物語」がないのだ。世界は様々な感覚知覚が「統合」されたものだ。その統合する力が、弱くなったのが統合失調症だから、もともと統合失調症には物語はない。

直子は第五章のワタナベくんへの手紙に自分の壊れた世界について述べている。

『公正』なんていうのはどう考えても 男の人の使う言葉ですね。でも今の私にはこの『公正』という言葉がとてもぴったりとしているように感じられるのです。たぶん何が美しいかとかどうすれば幸せになれるかとかいうのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正であるとか、正直であ るかとか、普遍的であるかとかね。

・・・・・・・途中省略・・・・・

私たちはたしかに自分の歪みにうまく順応しきれないでいるのかもしれません。だからその歪みがひきおこす現実的な痛みや苦しみをうまく自分の中に位置づけ ることができなくて、そしてそういうものから遠ざかるためにここに入っているわけです。ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめ られなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。そとの世界では多くの人は自分の歪みを意識せずにくらしています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私たちはインディアンが頭にそ の部族をあらわす羽根をつけるように、歪みを身につけています。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。(上巻P177~184)


直子には病識があるということだ。古井由吉の『杳子』も統合失調症の話である。わたしの同一性はうしなわれ、共同主観性はあやふやになる。世界が壊れ、現存在の了解性がなく なる。『杳子』だけではなく、統合失調症をテーマにした作品はたいていはこの壊れた世界を描いている。したがってそれは否定神学ならぬ否定人間学であり、具体的な人間の葛藤が描かれているわけではない。(注1)

ラカンのようなポストモダンの精神分析者は神経症ばかりではなく、統合失調症も理解できると思いこんだ。症状の中に隠された物語を求めるのではなく、症状の壊れた構造から、思いつきの形式的なメタファーで本来的世界を再構成しようとする。当然それは思弁的なスコラ哲学になる。

『ノルウェーの森』は「100パーセントの恋愛小説」だというが、あるのは100パーセントのセックスだ。愛というのは意味の過剰だが、直子にあるのは意味の欠如であり、美が理解できないように愛も理解できない。愛の不可能性ではなく、性交の不可能性があるばかりだ。

ワタナベは冒頭の回想場面で「直子は僕を愛してさえいなかった」というが、そうではなく、ワタナベは「僕は直子を愛してはいなかった。ただやりたかっただけだ」と言うべきではなかったか。

このポルノ風小説をなんとか恋愛小説として最後まで読ませてしまうのは、とこどころに挿入されている人生論じみたご高説やアフォリズムと、適当に配分された登場人物の自殺が、なにか深い意味があるようにおもえるからだ。

それと統合失調症の直子に健康な緑を対比させただけではなく、PTSDのレイコを二人の間に置いたことが構成上効果をあげている。レイコはレズビアンの少女にレイプされたトラウマでPTSDになり、直子と同じ療養所に入り、直子のルームメイトになる。レイコは直子とワタナベのあいだの通訳の役割を果たし、直子が自殺したあと、療養所を出て社会に復帰することを決意する。そして友人の音楽教室を手伝うために旭川に行く途中、東京に寄って、直子の代理を果たす形で、ワタナベとセックスをする。と言う具合に三島の『音楽』よりも娯楽性が高いけれど、そのぶん「もて男」ワタナベ君の自慢話になっている。

純文学として評価できないけれど、ソフトポルノとして女性が読むのはそれほど目くじらをたてて怒ることもないだろう。個人的にはレズビアンのレイプシーンよりも、療養所での直子とワタナベのシーンのほうが読んでいて薄気味が悪い。

いったんはこれで終わります。


注1:三島由紀夫『音楽』と古井由吉『杳子』は昔読んだだけなので記憶はあやふやです。『音楽』は再読するつもりはないが、『杳子』はもういちど読んでみるつもりだ。
2009.10.12[Mon] Post 03:02  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

村上春樹をめぐる夫婦喧嘩

村上春樹をめぐってニョウボと対立している。はじめは『羊をめぐる冒険』についてだった。

わたしが初めて読んだ村上春樹は『羊をめぐる冒険』だ。面白くて最後まで読んだ。村上の「デタッチメント」な感覚が心地よかったのだ。もちろん中途半端な結末には不満が残ったけれど、次々に現れる課題に淡々と身を任せることの陶然とした、缶ビールをゆっくりと飲んだときのような気分が心地よかった。ゲームの結末にさしたるこだわりはなかった。

ニョウボに薦めたけれど、彼女は読む前から「そんな厚いのきっとつまらない」となかなか手にとらない。読み始めれば、きっと夢中になるだろうと、くりかえし薦めた。しぶしぶ読み始めたけれど、文句ばかり言って、ちっとも読み進まない。そのうち静かになったから、夢中で読んでいるのかと思ったら、放り出してあった。

そのあと、わたしは『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』、それと短編集も買ったけれど、どれも気取りが鼻について読み通せなかった。片岡義男の方が軽ろみがあって好きだった。

そのうち片岡義男はじきに消えたけれど、村上春樹は『ノルウェーの森』がベストセラーになった。わたしもよんだけれど、なんだか薄気味が悪くなって、それ以後村上を読むことはなかった。ニョウボにも『ノルウェーの森』を薦めることはなかった。

ところが、娘が読んでいたりして、ニョウボも話題のために読んだらしい。その後も『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』なども娘に借りて読んでいた。わたしは『ノルウェーの森』のあと村上は手に取らなかった。

それで、話は『1Q840』飛ぶ。
『1Q84』はブログのネタのために読んだ。すばらしい作品とは言わないけれど、結構おもしろく最後まで読んだ。しかし、ニョウボは断固として読むのを拒否した。わたしは、『ノルウェーの森』を再読し、『海辺のカフカ』も読んだ(感想はカテゴリーの「村上春樹」)。

ごたごたと家庭の事情を書いているが、まあ、個人的な日記のブログだから許して頂くとして、ともかくニョウボはののしりながらも『ノルウェーの森』をもう一度読み始めた。読んだが良いが、相変わらずの悪口雑言、直子が「深いの、とっても深いの」と同じことを二回繰り返すだの、なんで直子が上着のポケットでうはなく、ツィードの上着のポケットに手を入れるだの、ワンレングス(?)の髪を蝶のヘア・ピンで留めているのが気に入らないだのと、言いがかりをさんざん言っていた。

それは、直子をショート・カットの緑と対照的に描こうとしているからだと言っても、そんなの対照ではなくて、ただ類型化だ、村上春樹は女がわかっていないし、女だけではなく、そもそも人物のデッサンが下手なのだ、と言われれば、たしかに男の永沢と突撃隊も対照的な男として描いているのだろうが、カリカチュアライズされているぶん、なおいっそう皮相な類型化に陥っている。

恋愛小説として駄目なら、ポルノ小説としてはどうかと聞いてみたが、「ぜんぜん駄目よ」とのご託宣、ポルノ小説なら谷崎潤一郎に限るそうだ。というわけで村上春樹は恋愛小説としてもポルノ小説としても駄作だというのがニョウボの結論らしい。

おおむねニョウボの意見には賛成だけれど、ただそのぜんぶ駄目なところが『ノルウェーの森』が恋愛小説でもポルノ小説でもない、まったく新しい「性文学」にしているのではないか。この小説でまともなセックスはレイコとワタナベのセックスだけだ。二人の間には愛も倒錯もない。男が奪うのでもなく、女が与えるのでもない、まったく平等な互酬的性の饗宴があるだけだ。

直子とは愛の証を求めてのセックスだ。そして失敗する。もともと直子はワタナベを「愛してさえいなかったからだ」 緑とのセックスは、緑が婦人雑誌の特集で読んだ、妊娠中の妻が浮気しないように夫にしてあげるいろいろな性技だ。もちろん緑には情熱らしきものがあっても愛という面倒なものはない。愛は直子に任せているのだ。

わたしはニョウボに『チャタレイ夫人の恋人』を読めば、村上の性の新しさが分かるといったけれど、村上のつまらなさは『チャタレイ夫人』を読まなくても判るわよ、それより谷崎の『猫と庄造と二人の女』を読んでご覧なさい、薄いからすぐ読めるわよ、普通の男と女がみごとに描かれているからと反論された。

わたしは『猫と庄造と二人のおんな』を読んだが、ニョウボはまだ『チャタレイ夫人』を読んでいない。
2009.09.23[Wed] Post 23:53  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

ワタナベ君とチャタレイ夫人(1)

『ノルウェーの森』と『チャタレイ夫人の恋人』の構造は似ている。

『ノルウェーの森』の主人公ワタナベ君は不感症の直子と健康な緑との三角関係で、チャタレイ夫人は不能の夫を捨てて、健康な森番のメラーズを愛する。

ワタナベは、自殺したキズキの恋人直子と東京で再会する。二人のあいだに愛らしき感情が生まれ、一度は完璧なセックスに成功するけれど、再び不能の状態になる。直子はワタナベに手淫と口唇性技で射精を手伝う。他方ワタナベは緑とポルノ映画を見たり、キスをしたり、セックスについて冗談を言い合いながら、友達ごっこする。

緑とのじゃれ合いは欲望と愛情にかわっていく。反対に、直子が療養所に入ることで、二人のセックスレスの愛情はしだいに曖昧になっていく。緑との関係をレイコに手紙で知らせるけれど、はっきりとは直子と別れるとはいわない。ワタナベくんは恋愛の駆け引きにおいていつも受け身であり、自分から積極的に振る舞うことはない。いうならば無責任なのだ。ワタナベくんは、性的野心なんかないふりをして女性に近づく。あるいは、永沢の恋人ハツミとは当然寝ると読者に思わせておいて肩すかしをくわせるたりする。(思う方が悪いんだがW)

肝心の直子の性交恐怖症の「理由」については、叔父と姉が自殺していることにふれているだけで、おそらくこのラブストーリーの一等重要な鍵であるはずのことに、直子がレズビアンであることをにおわせるだけで、ほとんど何もふれない。この小説の瑕疵とも言うべき構造上の欠陥を読者が見逃してしまうのは、ワタナベ君の「固くて太い」魔法の杖が、いずれ直子の性交恐怖を癒すとにおわせているからだ。村上春樹がいつも読者を騙すと言う意味なら、蓮見重彦が「結婚詐欺」と言ったことは正鵠を得ている。

ところが、ワタナベ君は性交不可能な直子から性交可能な緑に乗り換え、しかも緑とは性交せずに、直子と同じように「手コキ」で射精する。と言うことはワタナベ君は、愛とは「挿入」ではないと言いたいわけで、「手コキ」をさせることで直子と緑を同等に扱っているつもりなのだ。

いったい、これは、ワタナベ君の優しさなのだろうか、それとも自分勝手なエゴイズムなのだろうか。女性の性的欲望に無頓着な点では、ワタナベ君はたしかにエゴイストなのだが、直子はワタナベ君のものを口に含むのだし、緑は自分の下着を汚してもかまわないと言う。そもそも、挿入を拒否するフェミニストもいるわけで、手コキはむしろ女の男への暴力でもある。

村上春樹は物語の構造をいつも開いておく。開いておくというと聞こえがいいが、いつも二重の解釈ができるように曖昧にしておく。というより話は逆で、解釈しようとするから、曖昧にみえてくるのだ。ワタナベくんは、ただ、ああ言えばこう言ってるだけだ。

そして、ワタナベくんの決意とは関係なく、直子は自殺する。ワタナベくんは直子を救えなかったからか、あるいは直子に逃げられてしまったからか、悲しくてどうすることもできなくて、教科書どおりに一人旅にでて、夕方の浜辺で涙を流す。そして、慰めてもらったのか癒してやったのか、直子の形見の服を着た十九歳年上のレイコと四回交わる。

レイコとワタナベのセックスは、二つの役割を交代に演じながら、一種の互酬性が成り立っている。レイコは年上の女と十七歳の女の子を、ワタナベは初な少年と性技にたけた大人の役割を分担し、慰めと癒しを交換する。

レイコが旭川に旅発ったあと、ワタナベは緑に電話して、「世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会ってはなしたい。何もかも君と二人で最初から始めたい、」と調子のいいことを言う。それまで放っておかれた緑は「あなた、今どこにいうの?」と静かな声でいう。それでも、ワタナベ君、懲りもせず、その緑の問いを「僕は今どこにいるのだ」(傍点つき)と、まるで自分のアイデンティティーを問うように、「僕はどこでもない場所の真ん中から緑を呼びつづけていた。」という文でこの小説は終わる。

やれやれ、と思うでしょうが、これで話が終わったわけではない。小説の結末は小説の冒頭の悪名高き飛行機のシーンの「直子は僕のことを愛してさえいなかった」という回想につながっている。やれやれ。

最終的な評価はさておいて、この小説が多くの読者を獲得したのは、ソフト・ポルノだからだろう。ポルノの通例にもれず、ここには性に関する批判的考察もなければ、男女の深い心理分析もない。ただ若者の背伸びしたセックスの駆け引きをおもしろおかしく描いた風俗小説にはちがいない。

問題はそこから何か新しいものが生まれたかどうかである。小谷野敦は藤堂志津子の冷徹な男女の心理描写を例にワタナベ君の優男ぶりを批判しているけれど、そもそも、『ノルウェーの森』には、藤堂志津子の男女間の階級や年齢や社会的地位の差から生じる心理的軋轢の分析のようなもの一切ない。

むしろ、そんなものがないのが村上の世界なのだ。それは、レイコとワタナベの性交場面によく表れている。ここには年齢も性別も階層もこえた、お互いにいたわり合った「優しい」セックスがある。

さて、そのことを確かめるために、おなじ不能の問題を扱った『チャタレイ夫人の恋人』と比較してみよう。このロレンスの小説は、階級や性の解放や機械文明が主題なのだが、ある意味では、性における「優しさ」がテーマでもある。

つづく



2009.08.25[Tue] Post 02:47  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

村上春樹とサド侯爵(2)

『村上春樹とサド侯爵(1)』からつづく

『1Q84』の暴力は曖昧である。「さきがけ」はリーダーではなく、リトルピープルに支配されている。リトルピープルはピープルだから、ビッグ・ブラザーのような独裁者ではなく、民主主義の仲間かもしれない。だからこそ、青豆はリーダーを殺すことを躊躇したと考えればつじつまがある。

リーダーは、天吾を救うか青豆自身が生き延びるかの二者択一を青豆に迫る。そして、青豆は天吾をすくうためにリーダーを殺し、自らの死を選ぶ。リーダーを殺したのは暗殺者としての任務ではなく、天吾への愛のためだ。

『1Q84』の暴力は「愛のジレンマ」としてあらわれるが、『海辺のカフカ』の暴力は「暴力のジレンマ」としてあらわれる。暴力に抗するための暴力だ。

「暴力のジレンマ」は、『第16章』のジョニー・ウォーカーとナカタさんの対決のなかに現れる。猫の言葉が分かるナカタさんは、ひとに頼まれて、猫のゴマを探している。ジョニー・ウォーカーは猫の魂で笛を作るために猫を殺す。殺すために集めた猫のなかにゴマがいる。ジョニー・ウォーカーはナカタさんの目の前で猫の腹を割いて、切り取った心臓を口に入れる。次々と殺して最後にゴマを殺すという。

そしてジョニー・ウォーカーは言う。「私が猫たちを殺すか、あるいは君が私を殺すか、どちらかだ」と言う。ナカタさんは暴力を止めさせるために暴力を行使しなければならない。

ラスコーリニコフは、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社 会道徳を踏み外す権利を持つ」(wiki)と、金貸しの老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと企てる。それにたいして、ジョニー・ウォーカーはただ笛を作るために猫を殺すという。

「いいかい、私がこうして猫たちを殺すのは、ただの楽しみのためではない。楽しみだけのためにたくさんの猫をころすほど、私は心を病んではいない。というか、私はそれほど暇人ではない。こうやって猫を集めて殺すのだってけっこう手間がかかるわけだからね。私が猫を殺すのは、その魂を集めるためだ。その集めた猫の魂を使ってとくべつな笛を作るんだ。そしてその笛を吹いて、もっと大きな魂をあつめる。そのもっと大きな魂を集めて、もっと大きな笛を作る。最後にはおそらく宇宙的な大きな笛ができあがるはずだ。しかしまず最初は猫だ。猫の魂を集めなければならない。それが出発点だ。かくかように、ものごとにはすべからく順番というものがある。順番をきちんと正確にまもるのは、つまり敬意の発露なんだ。魂を相手にするというのはそういうことだからね。パイナップルやメロンなんぞを扱うのとはわけが違う。そうだね。」
「はい」とナカタさんは返事をしたが、実のところさっぱりわけがわからなかった。

ジョニー・ウォーカーのいうことは、混乱している。ラスコーリニコフの理論は目的は手段を正当化するという合理主義の哲学であり、明晰な理論である。しかし、ジョニー・ウォーカーの言う「物事の順番」というのはわからない。そもそも笛を作るためになぜ猫の魂が必要なのだろうか。

ジョニー・ウォーカーが説明をすればするほど事態は謎に満ちてくる。笛の音は自分には聞こえるけれど、普通の人には聞こえないという。なぜ、笛をつくるのかジョニー・ウォーカーにも分かっていない。かれは生きることに疲れた。年齢を忘れるくらい長く生きて、猫を殺すのにも飽きてしまった。

「・・・・。 しかし生きている限り、猫を殺さないわけにはいかない。その魂を集めないわけにはいかない。順番をきちんと守って1から10に進み、10まで行ったらまた1に戻る。その果てしない繰り返しだ。」

ジョニー・ウォーカーはシジフォスの不条理を生きている。自分から止めるわけにはいかない。自殺もできない。誰かに頼んで殺してもらわなければならない。それが決まりだ。

思い出すのはサド侯爵だ。うろ覚えだが、サドの作品に、心臓を切り取ってヴァギナに挿入する場面があった。神が存在しなければすべてが許される。ジョニー・ウォーカーはナカタさんの目の前で猫の腹を切り裂き、心臓を取り出して、言う。

「ほら、これが心臓だ。まだ動いている。見てごらん」
 ジョニー・ウォーカーはそれをしばらくナカタさんに見せてから、当然のことのように、そのまま口の中に放り込んだ。そしてもぐもぐと口を動かした。何も 言わずに、それをじっくりと味わい、時間をかけて咀嚼した。その目には焼きたての菓子を口にしている子どものような、純粋な至福の色が漂っていた。それか ら口もとについた血糊を、手の甲でふき取った。舌の先で丁寧にくちびるを舐めた。
「温かくて新鮮だ。口の中でまだ動いている」

ジョニー・ウォーカーは楽しみのために猫を殺すのではないと言うが、彼は十分に楽しんでいる。
食欲が性欲のメタファーなのは村上春樹に限らないけれど、村上ほど食事をセックスの導入に使う作家はいない。ここでは食べることがそのまま性交になっている。

犬を食べていいなら猫だって食べていいはずだ。村上はポルノグラフィーをソフトにするように、カニバリズムをソフトにする。

「猫捕り」が猫を捕獲して、実験動物にしたり、三味線にしたりする。猫を三味線にするのは昔からだ。しかし、ジョニー・ウォーカーは三味線にするのではなく、猫の魂で笛を作るためだ。そして、その笛の音は普通のひとには聞こえない。ここのあるのは読者を混乱させるための謎々と象徴と寓意の混交物で、ただの思わせぶりにすぎない。

「猫殺し」を殺すことが許されるだろうか。たぶんナカタさんには許される。ナカタさんは小学生のとき先生の暴力で気を失い、それがもとで知恵遅れになった。彼は無垢の「白痴」なのだ。かれは猫と話ができる。かれは猫に名前をつける。そのお話ができる猫が目の前で殺されていく。

殺されるのはただの野良猫ではない。ナカタさんの友達の猫だ。ジョニー・ウォーカーはナカタさんを問いつめる

「まず、君は私を恐怖する。そして私を憎む。しかるのちに君は私を殺す」

ナカタさんにジョニー・ウォーカーを憎む理由がある。憎悪は「人殺し」を正当化できない、ただ、動機にはなる。しかし、ナカタさんは恐れおののくばかりで、憎しみはない。ナカタさんは無垢の「白痴」だからだ。そのかわり読者のなかに殺意が芽生える。

ジョニー・ウォーカーはシジフォスの苦役から解放されたいと願う。しかし、自殺はできない。それが決まりだ。その掟がどこからやってくるのかわからない。殺してくれと頼まれて殺すなら、それは嘱託殺人だ。しかし、憎悪をもって殺せば、殺人罪である。

「私が猫たちを殺すか、あるいは君が私をころすか、どちらかだ」とジョニー・ウォーカーは言うが、この二者択一は奇妙である。もちろん、暴力には暴力しかない。しかし、猫を殺すのを止めさせるためにジョニー・ウォーカーを殺す必要はない。怪我をさせれば十分だ。

猫たちを救うためにジョニーを殺す必要はない。殺すためには憎悪が必要だ。嘱託殺人ならジョニーの不死の運命にたいする同情が必要だ。ナカタさんには憎悪を同情もない。無垢なる「白痴」ゆえに、悪魔のジョニー・ウォーカーの誘惑に負けただけだ。「白痴」のナカタさんに罪はないというのが村上春樹の弁護論だ。

『第16章』は村上春樹の『罪と罰』になりうるだろうか。日本文学の中で、これほど深く宗教的問題を描いた小説はない、とひとまずは言える。しかし、それが成功しただろうか。意見は二つにわかれるだろう。

わたしもどちらかに決めかねている。『第16章』は、ジョニー・ウォーカーがナカタさんを、じつに巧みに、ジレンマに追い込んでいく。しかし、子細に読めば、わたしが上で分析したように、あからさまに破綻した論理を歯切れのよい文体にのせて誤魔化しているだけのようにおもえる。

それにもかからわず、『16章』は楽しめる。「暴力のジレンマ」も、まったくの仮構とはいえない。しかし、ほかの章はつまらない。父親殺しのテーマはとってつけたようだし、突然近親相姦を暗示するようなシーンも何か深い意味があるように見せる小道具以上のものではない。『罪と罰』はラスコーリニコフが老婆を殺したあとに物語が始まる。そこに救いのテーマが現れる。

しかし、ナカタさんの罪と罰は、エディプスの神話のメタファーのなかに紛れてしまう。

暴力と性のテーマは、『1Q84』のリーダーと青豆の対決よりも、『海辺のカフカ』のジョニー・ウォーカーとナカタさんの対決の中によくあらわれていることはたしかだ。
2009.08.11[Tue] Post 22:31  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

村上春樹とサド侯爵(1)

性と暴力といえばマルキ・ド・サドだろう。

『1Q84』の評論はこの本を含めて、まだ本格的なものはでていない。ほとんどが春樹ファンクラブの会報か村上ワールドの攻略本の類だ。

村上のファンには、いろいろ蘊蓄をかたむけられるし、突っ込みどころまんさいだったりして、楽しみ方がたくさんあるようだけれど、端的に文学作品としての評価がない。

カルト教団とフェミニスト暗殺団をとおして、性と暴力が描かれているのだが、それが小説として成功しているかどうか、ということは、読んでおもしろく、同時に深く考えさせる物語になっているのかどうか、評論ならそこのところを書いてほしい。

暗殺団の世界は少し雑だけれど戯画化されていて楽しめなくはない。それにくらべ、カルト教団の世界は児童虐待が性暴力として描かれているだけで、内ゲバやテロの暴力は曖昧に描かれているだけで、結局はカルトのリーダーとフェミニスト青豆の対決は「愛のジレンマ」の二者択一の問題になっている。

この対決がドストエフスキーの『大審問官』の対決ではなく、映画の『地獄の黙示録』のカーツ大佐と暗殺者のウィラード大尉の対決を思い出させたのは、片方が暗殺者であり、もう片方のグルがそのことを知っており、自分の死を覚悟しているという状況が似ているからだ。

二巻までの物語の流れからみれば、宗教カルトとフェミニズムカルトは相打ちになって、リーダーの聖性はふかえりの秘儀によって天吾に伝えられ、どうやら幼なじみの天吾と青豆の二人の初恋が、次第に、センチメンタルなすれ違いの純愛物語になっていく。このあたりの展開はちょっとどうなんだろうと思うが、村上春樹には二人の性と愛の関係をどう展開するかの秘策があるのだろうか。

いまのところ、この物語の主題ははセンチメンタルな「愛によって世界を救えるか」という携帯小説になっている。

つづく
2009.08.08[Sat] Post 17:42  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。