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山口晃(2)

 山口晃が『Lagrange Point』展でやろうとしている「絵画を見るのではなく体験する」という考えについて補足しておきたい。
 絵画を「体験する」ということは、絵を漫然と美的に鑑賞することではなく、その絵に没入し、その絵画空間を生きる(erleben)ということだ。その絵画空間をグリーンバーグは、『モダニズムの絵画』の中で二つに分けている。

 「古大家たちは、人がその中へと歩いて入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョンを作り出したが、一方モダニストが作り出すイリュージョンは、人がその中を覗き見ることしかできない、つまり、眼によってのみ通過することができるような空間のイリュージョンなのである」(『グリーバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳)

 体験するというのは、歩いてその絵の中に入ることなのだろうが、それは知覚身体ではなく、想像身体が絵の中に入ることなのだ。これは、なにも絵画の世界だけではなく、窓の下に見える歩道を散歩するのも、未来の世界に遊ぶのも、同じ想像的身体なのだ。*
 この想像的身体で絵画の中に歩いて入るのなら、山口のこれまでの大和絵風俯瞰図の方がよほど上手くいく。虫眼鏡を使えばもっとうまくいく。しかし、それでは、絵画を体験することにはならない、体験するためには想像的身体ではなく、知覚的身体、つまり、現実の身体で体験しなければならないと山口は考えるのだ。
 しかし、そんなことが可能だろうか。絵画の空間は観者の身体空間から切断されたイリュージョン空間なのだから、想像的身体で中に入るほかない。それにくらべると立体の彫塑は、観者の身体が存在する現実の知覚空間と同じ連続した空間に存在する。ということは彫塑の人物はイリュージョンにはならずに、ただ人間の形をした物質の塊として存在しているのだ。このことは絵に描いた人間は、どんなに小さくても、人間の大きさに見えるが、ミニチュアの人形はミニチュアに見える、ということと同じこと意味しているのだ(くわしくは、まだ途中までしか書いていませんが、私のHP『絵画の現象学』参照)。
 絵を見るということは、そもそも、具象画であろうが抽象画であろうが、想像的身体で見るということなのだ(この想像的身体というのは、単純に現象学的記述です。この反対が、たぶんフリードの演劇性です)。
 というわけで、絵画の図像空間と観者の現実(知覚)空間を繋げるのは容易なことではない。このジレンマを解決するために、山口が行ったことは、平面の絵画を使ってインスタレーションをすることだ。まず、四天王たちを実物大に描く。そうすると、観者の空間と図像空間が連続したパースペクティヴの中におさまる。さらに、その実物大の人物画で観者をぐるりと囲む陣形で展示した。これによって、四天王たちの図像空間と観者の知覚空間を融合させ、イリュージョンでも現実でもない空間、つまり、山口の言う《結界》を生み出そうというのだ。すでに、述べたように、この目論見は失敗する。
 というのは、『絵画の現象学』で書いたように、絵画は〈物理的図像〉〈図像客体〉〈図像主体〉の三層構造になっており、物理的図像は知覚されたもの、図像客体は錯視や地と図などの現象も含んだ、より広い意味で知覚されているもの、そして図像主体は、いわゆるイリュージョン(想像でも錯覚でもない)で、知覚された図像客体が中和変容されたものである。図像には正しい見る角度というものが決まっており、大抵は正面から(ハンス・ホルバイン『大使たち』の頭蓋骨のような例もある)全体が視界に入る距離からみるのだが、ぐるりと周りを囲まれるとそのような〈正しい位置〉から、全部の絵を一遍に見ることが出来なくなる。斜めから見ることになったり、絵画同士が重なって見えたりして、イリュージョンの邪魔になる。そのかわりに通常は背後に隠されている支持体、すなわち物理的な絵画(衝立、表装、掛け軸を含む)が前面に出てきて、絵画(図像主体)を体験するどころではなくなる。
 そこで山口は、絵画によるインスタレーションではなく、平面のイリュージョン空間と立体の現実空間を折衷したようなインスタレーションを行う。山口は、物理的図像が露骨に現出しないように工夫を凝らす。
 このことは前回のブログにも書いたが、抜けていたこともあるので、もう一度箇条書きにする。

0.『Lagrange Point』を理解するには、蝋人形館のインスタレーションやスーパーリアリズムの彫刻作品と比べて見ればよい。これらは、生きた図像空間ではなく、死んだ現実(リアル)空間を作り出しているだけなのだ。
1.まず、部屋を閉鎖的な空間にして、四方の壁や天井・床を白く塗る。遠近感がなくなる。
2.さらに、薄暗い間接照明で壁の明暗差をなくす。部屋の奥行き感がなくなって、中性的な空間が生まれる。
3.五階の人物像には色を使っているものもあるが、二階の人物像はモノクロの線描であり、グリーンバーグのいう彫刻的イリュージョンは無い。線で三次元のイリュージョンを作り出すという絵画の純粋な形式が守られている。
4.人物図像を切り抜いて前後に並べる。前後に重なっても、それは人物が重なっているのであって、五階のインスタレーションのように、支持体が重なっているようには見えない。
5.切り抜きの人物像は、現実の展示室空間に、前後の間隔を狭くして並べられている。背後には切り抜きではなく、通常の遠近法で描かれ兵士たちが豆粒の大きさになるまで描かれている。切り抜きの兵士も後ろにいくほど縮小されており、ちょうど〈立体遠近法〉になって、遠近感が誇張される。展示空間の現実の奥行きと図像空間のイリュージョンの奥行きが合わさって、広大な平原に数十万人の兵士が待機しているように見える。
6.観者はバルコニーのようなところから兵士たちを見下ろすことは出来るのだが、中に入って自由に歩き回れるようにはなっていない。切り抜きの兵士たちもぐるりと観者を取り囲むように待機しているので、横から切り抜きを見ることはできない。しかし、両眼で見ているのだから、兵士が切り抜きであり、後ろへ行くほど切り抜きが小さくなっていることは判る。ということは、イリュージョンが消え、物理的な支持体が現れるということになる。
7.そこで、山口は、観者に片目で見ろと勧める。片目で見れば、遠近感を失って、平たい切り抜きは重なりあって一枚の平面的な絵画になる。絵になるといっても、完全に観者の身体(知覚)空間と切断されて図像世界に引っ込むわけではない。身体を動かせば、兵士たちの重なり具合も変化して、たしかに観者の身体と切り抜きの兵士たちは同じ現実の空間に属していると推察できる。
8.そういうわけで、このインスタレーションは、観者の属する現実空間から、切り抜きの兵士、そして紙に描かれた兵士の図像空間へと連続的に変化する不思議な空間を生み出すことになる。

 これが本当に「絵画を体験する」ことなのだろうか。縁日の見せ物小屋の演し物ではないのか。あるいは、ただ、実物大のパノラマブックを開いて、キリンや象やライオンが立ち上がるのを見て、喜んでいるだけではないか。
 われわれは、「絵画を体験する」ということを、グリーンバーグの「絵画のイリュージョン空間へ歩いて入ること」を、想像的身体ではなく、現実の知覚的身体で入ると修正した。そして、このことに、山口晃は、上に描いた折衷的な方法で半ば成功した。
 しかし、これは、照明を暗くしたり、片目をつぶったりと、抽象表現主義が「絵画を体験」させるやり方に似ていないだろうか。ただ、抽象表現主義のイリュージョン空間は歩いて中に入れるような空間ではなく、眼で通過するだけの空間なのだが、その空間(崇高?)を体験させるために、バーネット・ニューマンは全体が見渡せないほど接近して、作品に没入して欲しいと要求し、マーク・ロスコは極端に暗くした部屋で自作を見るよう要請したというのだ。(上田高弘の『モダニストの物言い』収載の『暗い部屋』参照)
 この二人の要求は、絵画の物理的存在で観者の現実の身体空間を取り囲んでしまおうとしているように思える。そのため、絵画を巨大にし、接近させ、暗くして観者の知覚をはぐらかそうとしているのだが、それは、結局のところ絵画の破壊につながるように思える。絵画を見るということは、支持体や絵具を知覚することに基づいているのだ。その物理的絵画(と図像客体)の知覚を通してイリュージョンを見るのだ。だから、近づいたり、暗くしたりすれば、物理的絵画(と図像客体)の知覚を困難にしてしまい、図像客体も図像主体も崩壊してしまうのだ。絵画イリュージョンは錯覚や幻覚ではない。あくまでも知覚が中和変容されたものなのだ。(注1)
 わたしには、絵画を体験させるための山口晃の方法も、ニューマンとロスコの抽象表現主義者の方法も間違っているのではないかと考える。しかし、この「絵画を体験」するという問題は、グリーンバーグの「イリュージョン空間」や、フリードの「没入と演劇性」、そして「インスタレーションの空間」などの問題と密接に関わっているのだから、ここで早急に結論を出すわけにはいかない。
 この問題は「(図)像の現象学」によってのみ解決できる問題なのだ。
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注1:図像客体が知覚されたものなのかどうか、観者の身体空間との関係から考察しなければならない。認知科学で扱う「ない物があるように見える」錯視は本来的な知覚ではないけれど、我々の身体空間の関係から言うと知覚に含められる。抽象画には本来の意味での図像主体はないのだが、たとえばロスコにはイリュージョンがある。図像主体とイリュージョンについては、錯覚などを含めて詳しい分析をしなければならない。

山口晃(3)へ
2006.12.22[Fri] Post 23:50  CO:0  TB:0  -山口晃  Top▲

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