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制作学から見た四人(奈良会田村上田中)のアーティスト


これは以前に書いたものを少し修正してアップしたものです。


 旧聞にぞくするが、第55回ベネチア・ビエンナーレで、田中功起が企画制作に参加した日本館が受賞した。これをうけて、小松崎拓男が、「Tokyo Pop」の時代が終わって、田中功起の「ライト・コンセプチャル・アート」の時代が始まったとツィートした。ところが、「Tokyo Pop」も「ライト・コンセプチャル・アート」も、命名者は小松崎拓男自身ということもあって、現代美術としては珍しく炎上した。

 しかし、論争は失敗に終わった。理由は明らかだ。対立点であるはずの、「コンセプチャル・アート」と「ポップ・アート」の両者の違いが明確ではないからだ。もちろん、現代美術を代表する二つのアートだから、コアな部分では、美術評論家の意見は一致するのだろうが、美や空間といった基準を解体した現代美術は、議論するにも、そのよって立つ論拠がなくなってしまったのだ。

 しかし、制作者は最初の享受者でもあるのだから、ことは、そう簡単ではない。 マチスの『画家のノート』は、マチスのなかの制作者と享受者の協働によって書かれた稀有な著作である。日本の現代美術では評論家兼業の美術家が多いが、ただ、混乱に拍車をかけているだけだ。

 批評家は、直接、実作者の内面を観察することはできない。しかし、間接的な方法、例えば、作家へのインタビュー、ノートや日記、あるいは制作風景を見学させてもらうなどすれば、作家の制作学的研究をすることはできる。ゲルハルト・リヒターの『写真論/絵画論』はインタビューや日記・ノートをあつめたものだが、抽象的な議論に終始して、あまり役立たない。《Abstraktes Bild 抽象画》 の制作風景の映像の方が、短いけれど、役に立つ。ただ、squeezingする前の絵具の置き方、塗り方、乾きぐあいなどの準備があるはずだが、彼は大きなヘラでキャンバス表面を擦る(squeeze)ところしか見せてくれない。リヒターの《squeezed painting》は、ポロックの《poured painting》に唯一、匹敵する重要な現代美術の技法なのだから、全面公開は無理にしても、なんとかヒントになることぐらいは見せて欲しい。

 村上小松崎両氏の論争は、めったにない貴重な機会だった。せっかく盛り上がりかけた貴重な論争の機会をどう活かしたら良いだろう。さいわい、村上隆奈良美智会田誠田中功起たちの制作風景のビデオがある。これを見て、アーティストを外側から観察すれば、より客観的な分析ができる。この方法は、ジャクソン・ポロックをめぐる「アクション・ペインティング論争」に決着を付けた(藤枝晃雄)ことでよく知られている方法だ。

 奈良美智については、ブログ記事『奈良美智の線』() に書いた。youtubeに『作業風景』(Making of Nara's Work)がアップされている。彼はいろいろな画材や技法を使うのだが、隠さず、カメラの前で使ってみせる。たとえば、柄の長い筆、刷毛、ちびた筆、色鉛筆、ティッシュなどだ。アクリル絵具の濃度も重要だ。画家には「手で描く画 家」と、「腕で描く画家」がいるけれど、奈良美智は手も腕も使う。それだけではない、筆を長く持って、腕を伸ばして描くときもあれば、筆を持たずに指先を 使うこともある。キャンバスは水平に置いたり、壁に掛けて上下左右を替えながら、描きやすい方向から描いている。遠く離れたところから指でキャンバスに想像の線を描いている。腕鎮は使わない。長い筆柄の端を持って腕を伸ばし、よたよたと線を引く。その「ゆらぎ」が、眼や口になる。奈良は「偶然」を取り込んでいる。以前、ラッセンとファンが重なると言われて、激怒したことがある。マーケット的にはそう言えるのかもしれないが、芸術の質からみれば、奈良美智の線が「偶然性」を取り込もうとしている点で、ラッセンのパターン化したポピュラー・アートの線とは異なる。

純粋に芸術の視点から見れば、奈良美智に対蹠的な線を引くのは会田誠だ。彼は、奈良が拒絶したラッセンのイルカと、自分の《滝の絵》が同じだと思われても構わないと言うし、そもそも、今ここで話題にしているポップとコンセプチャルの対立にしても、『美術手帖』のポップ特集で楠見清がポップはその背後あるコンセプトが重要だと言ったのを真に受けて、ニコニコ・マークを使ったポップな《河口湖曼荼羅》もコンセプチャル・アートだと言い出した。

会田誠のエッセイや展覧会のカタログ等には、制作の意図や着想が多く書かれているけれど、自分は「鶴の恩返し絵描き」で公開制作は好まないと言いながら、それでも、さいわい、制作風景の映像が『駄作の中にだけ俺がいる』の予告編にチラリと映っている。会田誠の線は偶然を取り込むのではなく、偶然を排除しようとしている。一本の「正確な」線を求めている。彼は、いかにもプロぶった、デフォルメしたデッサンは嫌いだと、どこかで言っていた。《灰色の山》の死んだサラリーマンの格好をしたモデルを下絵用に写真に撮っている。また、面相筆を舐め舐め《滝の絵》の仕上げ(?)をしている。ポスカを使うのは芸大では常識だったと言っているが、《大山椒魚》のニンフの輪郭線は面相筆なのか、それともポスカなのか分からない。

会田誠には、もう一つの線がある。ヘタウマの線で、わざと下手に描くのではない、素直に描けば、そうなるという。この二つの線の使い分けは、絵画教室に通い始め中学生の頃から始まっているのだろう。「自家製自家用ポルノ」と「漫画」の線だ。もともと会田誠は、線だけではなく、内容的にも分裂している。美少女にも《犬》シリーズと《美少女》の自慰パフォーマンスがあるように、ひとりでポップとコンセプチャルを兼ねているようなところがある。彼は予備校の夏期講習で自分が魅力的な線が引けないことを自覚したと言っている。ピカソは子供のように描くのに40年かけたが、会田さんは生まれながらに子どものような線が描けるのだ。会田誠は分裂したままだ。いったいこのまま分裂状態の方がいいのだろうか、二本立てをやめて、自分の線を求めた方がいいのだろうか。主題によって線を変えるのは、確かに魅力的なやり方だ。しかし、どこか、逃げ腰に見えないだろうか。それでは、いつまでたっても自分の線が描けるようにならないだろう。ピカソはさまざまな線を持っている。しかし、ピカソはピカソなのだ。佐々木豊が《犬》シリーズは「首輪をとったら普通のヌードだ」と言った意味が、今さらながら、分かるような気がする。

残るは、「Tokyo Pop」の村上隆と「ライト・コンセプチャル・アート」の田中功起だ。一番激しく小松崎拓男の「ライト・コンセプチャル・アート」に噛み付いたのは村上隆だから、ちょうどいい。彼は『美術手帖』の「ポップ/ネオ・ポップ」のシンポジウムでも、モデレータの楠見清に噛み付いていたが、いったい、何に腹を立てているのだろうか。こういう時こそまさに「制作学」の出番だ。うまい具合に村上隆の「工房方式」も、田中功起の「協働方式」も、複数の制作者が協力して、一つの作品を作る方式なのだから、両方式の違いを見つけるのはそんなに難しいことではない。

「工房方式」は、昔からある。教会の壁画や天井画は、複数人で制作するのが当たり前のことだった。村上隆は100mの巨大壁画を制作するのだが、田中功起が作るのは、一人で十分な《陶器》である。なぜ、わざわざ、5人で協働する必要があるのだ。しかも、初対面の人たちだ。ベネチア・ビエンナーレのときに、言ったことだが、まるで、バラエティ番組だ。わざと難しくしている。

 実は、田中功起の協働作業には、作品と言われるものが二つある。《陶器》と《ビデオ》だ。陶器は表向きの作品で、《ビデオ》こそが、展覧会のタイトルでもある『田中功起 共にいることの可能性、その試み』のプロセスを記録した本当の作品だ。協働してつくるのは《陶器》だが、コンセプチャル・アートとしては、制作のプロセスを記録した《ビデオ》が第一の作品だ。

しかし、何か腑に落ちない。制作のプロセスを撮ったビデオがコンセプチャル・アートなら、村上隆の《五百羅漢図》のメイキング・ビデオもコンセプチャル・アートということにならないか。


両方式とも作品をつくることが目的だ。村上隆の方式の特徴はPCとシルクスクリーンを使うことだ。小さく描いた絵を拡大するのと、体を使って、大きく描くのとでは、おのずと線は変わるだろう。PCでコピペ修正すれば線は死んでしまう。そうでなくとも、いろんなメンバーの手がはいるし、なかでも、村上隆の目が光っている。とても、奈良美智のようには「偶然」を活かすことはできない。今は、大きいだけの木偶の坊に見えるけれど、将来、どう評価されるかわからない。こんな巨大な絵画を作ることなど二度とないのだろうし、3・11の記念碑的作品としてはこの巨大な作品以外にないだろう。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2016.05.18[Wed] Post 14:04  CO:0  TB:0  制作学  Top▲

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