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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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草刈ミカの《デコレーション絵画》  -前編-

マチスは絵描きになるなら舌を切れ、そうすれば絵を描くことでしか自分を表現できなくなるといった。しかし、そう言ったマチス自身が『画家のノート』という名著を残している。

現代美術は作品だけでは評価されない。理論といっしょになって、初めて作品になる。その理論を提供してくれるのが、美術評論家であり、学芸員である。近頃では哲学者が、理論なら任せろとばかり、絵も見ずに口先介入をするようになった。そうなれば、作家の方も理論に合うような作品をつくるようになる。さらには、そんなまだろっこしいことはやめにして、理論も自分で作ろうと、評論家を兼業する作家がふえている。

そんな中で成功したのが草刈ミカだ。草刈ミカは評論家に人気がある。鍵語をたくさん使って話してくれるからだ。セカイ系、反フラット派、色彩と線描とマチエールのアクロバティックな同居、グリッチ、画中画、凹凸絵画などなど、「絵の具のマインドコントロール」なんて名コピーである。

草刈ミカの幸運は、中ザワヒデキと出会ったことだ。中ザワヒデキは「色はビットマップで、線はベクター」と画像ソフトのアルゴリズムを持ち出すデジタル派である。「アナログ」の絵具で描く草刈ミカと、画像の「デジタル」処理をする中ザワヒデキとは対立すると思うのだが、二人とも評論家と作家を兼業しているので、そこは、お互い補完しあって、相乗効果があるのだろう。

もう一人、草刈ミカ論を書いている評論家に飯盛稀がいる。彼の美術評論はとくべつ難解だ。しかし、素直に読むと、彼の方法は、かって流行った「構造主義」との類似を感じる。象限、鉛直と水平、+と-など、二項対立らしきものを探して、それを組み合わせて、一覧表を作っているけれど、何か有意義な結果がえられるわけではない。

藤枝晃雄は「見ることと知ることの倒錯」を戒めている。絵画とは理論ではなく、「知覚に基づいた想像」であり、平面上に絵具で描かれた線や色や形を知覚して、それに〈類似〉した「主題」を想像している(自由な想像ではない)。具象的な主題もあるし、抽象的な主題もある。どちらにしろ、草刈ミカが言うように、絵具はアナログ的な物質であり、キャンバスの平面に絵具で描かれた「図像客体」を知覚して、その図像客体に類似した(アナログ)対象(図像主題)を想像するのが絵画である。批評はなによりも、作品を見る(知覚する)ことからはじめなければならない。(『知覚と想像の分離』についてはココ)

『凹凸絵画』に惹かれたのは、チューブから絞り出したような「絵具の紐」を見たからだ。いわば、ナマの絵具、画材としての絵具を見たわけだ。「絵具の紐」は、妙に生々しく、エロチックでもある。この「絵具の紐」は知覚された三次元の物質であり、想像されたイリュージョンではない。一言でいえば、それは絵画ではない。そっくりな蝋人形と肖像画をくらべると、どちらの方が生きて見えるか。もちろん〈知覚〉で見る蝋人形より、〈想像〉で見る肖像画の方が生きいきとしている。それなら「絵具の紐」は知覚しているのに、なぜ、そんなに魅力的に見えるのだろう。


柿栖恒昭(『現代絵画の再生』Kindle)は、生のマチエールあるいは絵肌の素材感を「素材表現」と名づけ、その例として、ジャスパー・ジョーンズの《星条旗》や《標的》をあげている。ジョーンズは、《星条旗》や《標的》など、身の回りのものを描いてはいるが、ポップ・アーティストではない。ジョーンズの絵画はキャンバスに「絵具のかたまり」がたくさんぬられているけれど、それらが対象を構成することはない。絵具は色彩とはならず塊のままばらばらに散らばっている。絵具の塊を強調するためにジョーンズは絵具に蜜蝋を混ぜて、星条旗や標的や数字の輪郭線の囲いの中に「設置」(placement)する。彼はこれまで誰もやったことのない「素材表現」をする現代美術家なのだ。

「素材表現」を理解するには、絵画より彫刻のほうが分かりやすい。たとえば、ジョーンズの《ビール缶》は「素材表現」の作品なのだ。



《ビール缶》には、絵具のかたまりのかわりに、ブロンズのかたまりがある。眺めていると、触れたり押したり、持って見たくなる。この感覚が素材表現だ。写真でもこの触感を感じとることができる。しかし、はっきりと《ビール缶》の素材感覚を憶えているのは、『国立新美術館開館記念展』で、この《ビール缶》とジャコメッティの《ディエゴの胸像》をめぐって、ニョウボと言い合いをしたことがあるからだ。ニョウボは《ビール缶》になんの興味もしめさず、その代わり、《ディエゴの胸像》にはどうしても触りたいようで、しまいに私に触ってみろと言いだした。たしかにジャコメッティの彫刻は触覚的ではあるが、私がどうしても触りたくて、ムズムズしたのは《ビール缶》の方で、今でも、この写真を見ていると触れたくてムズムズしてくる。

『凹凸絵画』を見てみよう。この絵は離れて見れば、格子縞の模様が見えるけれど、近づいて見ると「絵具の紐」が見える。少し横から見れば、紐が波打っているのが見える。距離によって違って見えるのは桑久保徹の風景画()も同じだ。近づくとマチエール(物質的な絵具)が見え、離れるとパターン(格子模様)や図像(湖畔の風景)が見える。

近づいたときに見える「絵具のかたまり」は桑久保と草刈では違いがある。桑久保の絵具はかたまりになってはいるけれど、家具や電気製品や洗濯物の描写になっている。その意味では、ジャスパー・ジョーンズの《星条旗》や《標的》のような「素材表現」とはいえない。反対に、草刈の物質としての絵具は格子縞の三次元の太い線(紐)になっているのだから、絵具のかたまりとはいえない。しかし、どういうわけか、「素材表現」になっている。

これには、ちょっとしたレトリックがある。《凹凸絵画》の線は格子縞の長い、なめらかな線にもかかわらず、多くの論者は決まって「直接チューブから出した様な凹凸の絵具の線」という。チューブからそんな均一の長い紐が出せるはずもないけれど、「チューブから直接出した」といえば、それは画材(materials素材)ということになる。画材屋の広告には、チューブから絵具をニョロリとパレットに絞り出した写真を使っているではないか。

草刈ミカの表現技法の変遷は詳しく知らないけれど、現在の『凹凸絵画』の段階では、ジョーンズ、フランケンサラー、ルイスなどの素材表現の系譜につながるように見える。それは「格子縞の線」を「チューブから直接出したような絵具の紐」で「描く」という僥倖のお陰だ。格子縞がジョーンズの《星条旗》のストライプや《標的》の輪と同じ囲いの役割を果たしている。その囲いがそのまま絵具のかたまり(素材)になっており、これは、いわば『凹凸絵画』の「自己言及性」(W)ともいえるわけだ。

『凹凸絵画』は「パターン/デコレーション」から「抽象画」へと変化していくなかで、「チューブから直接出した(ような)絵具」という「物語」にいつまでも頼るわけにはいかない。実際には、口金の交換できる〈squeeze bag〉のようなものを利用しているけれど、企業秘密なのかもしれない。「格子縞」そのものはパターン(模様)だからイリュージョンは生まれない。「絵具の紐」は三次元の立体だから知覚が優勢で、想像は作動しにくい(高松次郎:注1)。おそらく、草刈ミカが今の方向を続けるなら、線による、オールオーバーで反造形的な抽象画になるだろう。そうだとすれば、『凹凸絵画』の「スクィーズ技法」が重要になる。スクィーズ技法で描かれた作品は『凹凸絵画』というよりは、むしろ『デコレーション絵画』がと呼ぶのがふさわしい。

抽象画のイリュージョン空間についてはグリーンバーグの「平面性」以来さまざまな議論がなされてきた。そして絵画はついに一切のイリュージョンを捨て、知覚するだけのドナルド・ジャッドのキューブ(ミニマル・アート)になり、さらにはそのオブジェさえ必要ないコンセプチャル・アートになった。このあたりのことは、『批評空間』の特集号『モダニズムのハード・コア』をめぐる論争に草刈中ザワがいかなる立ち位置にいるのか、詳らかにしないが、日本の現代美術家は、ほぼ全員がアンチモダニストだ。彼らは「抽象表現主義」と聞いただけで、逆上する。

草刈ミカの「デコレーション絵画」を技法からみると、モダニズムの抽象画の伝統につながる可能性がある。わたしは、抽象画を評価するために「描くことと偶然性」のスケールを使っている。これは美学の問題ではなく、抽象画の実践的鑑賞学だけれど、このスケールを使うと、絵がよく見えてくるのだ。今、私が一番高く評価しているのは、ジャクソン・ポロックの〈poured painting〉とゲルハルト・リヒターの〈squeezed painting〉の二つだ。

ポロックの「ポード・ペインティング」は、藤枝晃雄の「ポロック論」のキー・ワードで、アクションやドリッピングとはまったく異なる技法だということだ。リヒターの「スクィーズト・ペインティング」は私が、写真のプリントの水滴をこすり取る「スクイーザー」から命名した技法で、「描く」を減らし、「偶然」増やす技法だ。現在のところポロックのポーリングに匹敵する唯一の技法である。素材表現の視点から両者の技法を比較すると、ポロックの糸をひいたような細い線は、エナメル塗料の素材感がするし、リヒターの《Abstraktes Bild》の表面は擦られて出来た線やパターンというよりも、近作では、擦られてこびり付いている絵具の素材感のほうが強まっている。

この二人の技法と草刈ミカの「凹凸絵画」を比べたらどうなるだろう。すでにお気づきだろうが、草刈の『凹凸絵画』とリヒターの『アブストラクト・ペインティング』は同じ「スクイーズ技法」による絵画である。しかし、〈squeeze〉の言葉は同じだが、「絞る」と「擦する」では、意味が異なる。リヒターの〈squeezed〉はポロックの〈poured〉との類縁性から命名したもので、草刈ミカの「スクイーズ技法」とは無関係である。

ポロックのポーリングも近くで見れば、エナメルやペンキの盛り上がりがあるが、適当な距離で見れば、物質感がなくなり、描かれた線が現れてくる。それに対し、草刈ミカのおそらく「絞り袋」(squeeze bag)による「デコレーション・ペインティング」は絵具の紐を「設置」(placement)しているだけなので、素材感が強く、その分、「描くこと」が少なく、想像が働きにくい。

ポロックの「ポーリング技法」は、画家が筆で支持体に触れない、注ぎながら垂らしながら描く。リヒターの「スクイーズ技法」は筆ではなく、スクイーザーで絵具を擦る。草刈の「絞り袋の技法」は筆を使わず、直接チューブから出したような絵具の紐をキャンバスの上に「設置」していく。三人とも筆は使わない。その代わり、ポロックとリヒターは「注ぐ」と「擦る」で描いている。草刈は絵具の紐を「置く」だけで、想像を作動させるような「描く」ことはしない。

何がなんでも、イリュージョンを排除しようという現代美術においては、草刈ミカの『デコレーション絵画』こそ可能性を秘めているのではないか。後編ではそのことについてできれば少し書きたいが、どうなるやら。たぶん・・・・・

前編おわり

注1:「高松次郎の『紐』と『線』」では草刈ミカの線について論じています。 http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-959.html 

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.12.13[Sun] Post 14:05  CO:0  TB:0  草刈ミカ  Top▲

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