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会田誠の政治学(前編) 「“スキャンダル”からの足の洗い方」(佐々木豊)

東京都現代美術館の企画展『子供展』の会田家の展示作品のうち、《国際会議で演説する日本の総理大臣と名乗る男のビデオ》と《檄》のニ作品が現代美術館側から「子どもにふさわしくない」という理由で、改変あるいは撤去を求められるという騒動が起きた。

会田誠は猛然と抗議した。しかし、「表現の自由」を主張したわけではない。ただ、展示作品は政治的な作品ではないし、これまでも美術作品で党派的な主張をしたことはないと、改変撤去の不当性を訴えただけだ。

確かに、これまでの作品、たとえば、《戦争画RETURNS》や《原爆ドーム》など多くの政治的社会的な作品を描いているが、どれも、反核反戦やPCやフェミニズムの図解的な表現を免れている。彼の作品には常に多義性とアイロニーが隠されている。

会田誠が28歳のとき、小学生や中学生になって描いた《ポスター》シリーズがある。そのなかに小1の《平和》と小6の《愛》のポスターがあるのだけれど、「LOVE and PEACE」といえば、「お花畑の思想」である。ところが、そのポスターは小学生が描いたもので、大人の口真似をしているだけか、あるいは先生が出した課題にしたがっているだけかもしれない。誰も小学生がそんな「深い思想」を持っているとは思わない。そして、それはSNSデモに参加しているという若者たちへの皮肉にもなるだろう。

《ポスター》シリーズにアイロニーがあるのは、奈良美智の「NO NUKES, NO WAR」のプラカードを持ち、怒りに燃えた目をした少女の絵と比べてみれば、一目瞭然だ。そう考えれば、《国際会議で演説する日本の総理大臣と名乗る男のビデオ》と《檄》の二作品は一方の党派を支持するような政治的なものではないという会田の言い分を認めることができるだろうし、「子どもにふさわしくない」という批判は不当な言いがかりだといえる。もちろん、どんな理由があろうが、いったん展示を認めたものをあとで撤去しろというのは論外だ。

しかし、問題はその後だ。会田誠が「政治的なものではない」と、いくら主張しても、それに逆らうように、これは「極右政権安倍内閣の批判」だという意見が内外から出てくる。何故だろう。

《国際会議で演説する日本の総理大臣と名乗る男のビデオ》に関しては容易に理解できる。事情は「従軍慰安婦」と同じで、欧米人には日本の性文化が理解できないように、江戸時代の鎖国制度の歴史的意味もを知らないからだ。そんな欧米人にとって鎖国政策は、難民を受け入れないネオ・ナチということになる。日本語ができない外国ジャーナリストの情報源は限られているということもあって、安倍首相と聞けば条件反射的に歴史修正主義者と考えるようだ。

国内では《ビデオ作品》より《檄》の方がより多くのコメントを集めたという。《鎖国》が日本であまり騒がれないのは、江戸時代の鎖国を知っているし、近い将来東アジアで破綻があれば、否応なく難民問題に直面するのだが、サヨクはことの重大さに気づかない。それに比べると、《檄》は、直接文化行政に関わる文科省を批判しているので、「撤去要請」は権力による「表現の自由」の弾圧だと、絵を見る目のない美術評論家ならぬ表象文化論者が、だれでも言えることを言っているだけなのだ。

いかなる党派にも与しないというのは結構だが、会田家の展示室のサブタイトルは「(大人も子どもも)社会を考える」ということなら、子どもだって言いたいことを自由にいうのが「民主主義」の真理などと、「硬直した言語使用」をせずに、政治や歴史を知らなければならないことのヒントを子どもにも与えてやることが重要ではないか。政治はつねに二重の意味が潜んでいることを誰よりもよく知っているは会田誠自身ではなかったか。もちろん、《檄》もユーモアだと言っているわけだが、それはサヨクの言説をまぶしたドタバタの家庭劇であり、《原爆ドーム》や《ポスター》にあるようなアイロニーはない。

会田誠は、もはや富国強兵殖産興業の時代ではないという。「江戸時代の鎖国」が平和をもたらしたとすれば、「明治維新の開国」は、日本をアジアで唯一の自立した独立国家としての平和をもたらしてくれたのであり、当時のアジアの状況を鑑みれば、単純に富国強兵が軍国主義というのはあたらない。現代の世界を見渡してみても、言葉は古くなったけれど、依然として、「富国強兵殖産興業」が自立と平和のために重要であることは言うまでもない。   

経済力や軍事力のない国は他の強国と同盟を結ばないかぎり平和は得られない。もちろん同盟で守られる平和は偽りの平和であり、自立するには自主防衛しかないのだけれど、アメリカは、習近平訪米の帰国土産に、中国の新幹線の導入を決めたことで明らかなように、対中宥和政策をとっており、日本は裏切られることを覚悟して置かなければならない。アメリカが日本に核武装を認めないかぎりアメリカを信用するわけにいかない。とはいっても、中国と同盟を結ぶ選択肢はありえないだろう。

教科書検定の問題はもっと「政治的」だ。検定制度は教育委員会の教科書採択制度と一緒に考えなければならない。誰が何故、検定制度を廃止しろと言ったのか分からないが、おそらく、検定はお上が子どもの教育に介入する検閲のようなものだと考えているのではないか。しかし、これは一面的な見方である。検定制度を逆手に取って文科省に政治的な圧力をかけることもできる。また、教科書採択の権限をもつ教育委員会はもちろんのこと、現場の教師も大学も教職員組合もサヨクが支配している。文科省が日教組潰しを止めたのは、組織率が減少したからではない。非組合員もみんな左傾して、今では両者はグルなのだ。

高尚な芸術にこんな政治的駆け引きのようなことを言って申し訳ないが、会田誠さんが檄文は「政治的なものではない」と言いながら、他方では、津田大介氏の東京都教育委員会が一部の学校で育鵬社の教科書を採択したのは、教育委員会の人事に政治が介入したからではないか(うろ覚え)というツブヤキをリツイートして、自分の今回の撤去要請の背景に同じようなことがあるのではないかという。そのあと会田さんはこれまでなかった政治的なツブヤキが、一時的にしろ、多くなったよう気がする。村上隆のように少しでも橋下大阪市長の文化行政教育行政を知っていれば、津田大介氏のレトリックにだまされることもなかったはずだ。

これ以上、政治的かどうかの議論をしても仕方が無いような気がする。会田さんが「コンセプチャリズム宣言」をしたときに、いずれこうなることは分かっていた。そもそも、「現代美術」には、藤枝晃雄の「擬似コンセプチャリズム」が蔓延しているのであり、そうなれば、岡崎乾二郎が「拡張されたPC」といって批判している安易な政治的芸術の流行に逆らうことは難しくなる。

もっと卑近な話をしよう。世間話で芸術を論じるのが得意な佐々木豊さんにもう一度お出まし願おう。じつは、《Round About》の「佐々木豊VS会田誠」の対談のタイトルは『“スキャンダル”からの足の洗い方』なのだ。会田誠はもともとエロと政治の二本立てと言ってもよい画歴を重ねてきたが、一般的にはエログロの画家として知られ、自分では「鬼畜系」といっていた。イラストレーターと言われ、低い評価に甘んじていた時代もあったが、時代は変わって、超絶技巧のイラストが評価される時代になった。山口晃といっしょに、自分たち二人は「勝ち組」だと言いながら、こんなことは長くは続かないと自戒の念をこめて付け加えてもいる。

会田誠は、山口晃とちがって、正統的な現代美術家で、抽象画にも挑戦したし、最近の作品で、今回、改修撤去を要請された《安倍首相の鎖国演説》は、ドイツの難民問題が起きたことを考え合わせれば、『チャプリンの独裁者』をしのぐ傑作と評価されるときがくるだろう。《文字》シリーズの《I-DE-A》(美少女パファーマンス)は、コンセプチャル・アーティストの元祖コスースの《一つと三つの椅子》がプラトンのイデア論の図解でしかないのにくらべ、自慰という欲望のパフォーマンスによってイデアの実在を証明しようという「真正のコンセプチャル・アート」になっている。抽象画はともかく、他の作品はどれも現代美術としては世界でも通用する優れたものだが、相変わらずエロとグロのスキャンダル作家の汚名をそそぐことは出来ない。

森美術館の個展『天才でごめんなさい』展では、児童ポルノ疑惑のスキャンダルに巻きこまれ、企業からの協賛は少なく、どういうわけか、現代美術評論の重鎮椹木野衣に、歴史の評価を受けなければ、それはエロチシズムではなく、ポルノグラフィーだと批判される始末。話題性のためか観客は大入りだったが、“スキャンダル”からは足が洗えない状況が続いた。会田自身が青森県立美術館の「美少女の美術史」展に声がかからないとか、『美術手帖』のポップ・アート特集に《書道教室》を載せてくれないと嘆いていたぐらいだ。

ところがどうだろう。今度の『子供展』の《(大人も子どもも)社会を考える》という会田家の展示で、一挙にスキャンダル・アーティストの「汚名」を返上してしまったのだ。朝日からインタービューを受けるし、これまでドメスティックなアーティストだと思われていたのが、海外でも反響を呼ぶし、一躍、山口晃を尻目に、現代美術のスターになってしまった。

会田誠が、国内でも国外でも、いまひとつ評価されないのは、エログロもあるだろうが、それよりもイデオロギーの問題なのだ。日本の現代美術の世界は圧倒的にリベラルに支配されており、リベラルでなければアーティストにあらずの観を呈している。そんな日本の現代美術の世界で、会田誠は日本的な古いサヨクとウヨクの図式的対立を頭に入れながらも、どちらにも偏らない、だからと言って折衷主義にも陥らない、アイロニーに満ちた作品を生み出してきた。

今回、撤去要請された二作品も政治的なものではないと言っているのだが、撤去を要請している側も、撤去に反対している側も、ともに会田家の展示が政治的なものだと思っていることに関しては同じなのだ。そもそも、会田家の展示室のサブタイトルが《社会を考える》というのだから、展示は政治的なものだと自白しているようなものなのだ。「社会性」といえば、奈良美智が、クリスチャン・ラッセンと同じ癒し系と言われて、自分には社会性があるんだとひどく憤慨していたことがある。その奈良さんが自分の少女キャラに「NO NUKES, NO WAR」のプラカードを持たせたわけだが、イルカだってそのぐらいのプラカードをぶら下げることはできる。

「社会」という言葉に釣られたわけではないだろうが、これまで、《戦争画RETURNS」》や「反フェミニズム的作品」のためか、「ウヨク疑惑」がついてまわった会田が、今回の「安倍右翼政権批判」と思われる(誤解された?)作品で、「朝日」などリベラルなジャーナリズムから自分たちの仲間だと認められたのだ。これで、会田さんは右翼疑惑を晴らすこともできたし、ついでに、スキャンダル作家の汚名も返上できた。リベラルにはそれだけの魅力があるのだ。

前編おわり

以上で、話は終わらない。ここまでは表向きの話で、実は《檄》には別の話が隠されている。あらかじめ断っておくが、これは作品の話ではない。会田という作家の話なのだ。
 《檄》を見たとき、『青春と変態』を読んだとき以来の涙がにじんだ。感動したのは《檄》を「私小説」として読んだからだ。当然、筆跡を見る。「会田家」の署名を見て、「新潟の会田家」を思い出した。唐突だが、《檄》の背後には「父との和解」の物語が隠されているのではないか。そう考えれば、会田さんが《檄》は「政治的なものではない」と抗弁している理由が分かる。
 後編はそのことに付いて考えてみたい。

 

スレッド:絵画・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.10.03[Sat] Post 14:39  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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