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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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高松次郎の「紐」と「線」

紙に引かれた線は二次元だが、高松次郎の「紐」は三次元の線だ。この二次元と三次元の違いが取りも直さず「絵画」と「オブジェ」の違いになる。

しかし、紙にひかれた線が「直線」なら、たしかに二次元だが、それが「曲線」になると三次元に見える。何故だろう。平面の紙に描かれた線は、直線であろうが曲線であろうが、二次元のはずだ。

平面に描かれた二次元の線が三次元にみえるのは想像で見ているからだ。絵を見るということは「知覚に基づいた想像」で、二次元の「図像客体」を見て、三次元の図像主題を想像している。ところが紐はオブジェであって、紙の上に置けば盛り上がって三次元に見える。紐はもともと三次元の立体なのだ。立体であれば、両眼視差その他の知覚作用が強く働くので、想像で見ることは難しくなる。

「絵画における想像」は「事物(知覚)」に基づいた想像であり、基づかない自由な想像とは区別しなければならない。立体の彫刻は知覚が優位なので、想像で見ることは比較的難しい。だから出来の悪い彫刻ほど困ったものはない。同じことは絵具が盛り上がった絵画にも言える。例えば白髪一雄の抽象画は余程集中しなければイリュージョンが見えない。

草刈ミカの《凹凸絵画》は文字通りデコボコで、チューブから出したままのアクリル絵具が、紐を編んだように絵画表面にのっかっている。観者の見る距離にもよるが、どうしても、仔細を見るため近づきたくなる。近づけば、知覚作用が働き、線や色ではなく、絵具の紐が浮いて見えてしまう。もちろん、そう見えることは、現代美術の「反イリュージョニズム」の面白さであることは間違いないけれど、絵画本来の知覚に基づいた想像が抑圧されてしまう。

今さら言うのも気が引けるが、ここで思い出すのは、どうしても、ポロックのポード絵画である。ポード絵画のエナメルペンキは、草刈ミカのマカロニほどではないが、少し近づいてみれば、やや盛り上がってみえる。棒につけてたらしたり、まき散らしたりするのだが、キャンバスを床に広げてあるので、下に垂れたりしないし、エナメルペンキが広がりすぎない適度な粘度なのだ。塊にならず、キャンバス表面に密着して、すこし離れてみれば、紐や糸ではなく、たしかに線がみえる。

もうひとつ重要な事は、草刈ミカの紐のような線は下の紐に重なって、波打ちながらも、数本が平行に並んでチェックの模様を描いているのだが、ポロックの線は真っすぐ伸びているわけではなく、太さもバラバラの曲線で、その線がからみ、よじれて重なり合っていることもあって、絵具の物理的空間ではなく、線や色が描く想像の奥行きが現出している。これがグリーンバーグのいう「浅い奥行き」ではないか。

紐と線の違いが理解できただろうか。上では、草刈ミカの《凹凸絵画》とポロックの《ポード絵画》を比較することで、「紐」と「線」の違いを説明した。しかし、二人の画家の具象画と抽象画を比較したのだから、かえって混乱が生じたかもしれない。さいわい、高松次郎の原点というべき作品に平面(線)とオブジェ(針金と紐)を主題にした《点》シリーズがある。それを『高松次郎ミステリーズ』の順番に見ていくと高松次郎の意図が見えてくる。

最初の《点》は61年に描かれた油彩である。毛糸クズや糸クズを寄せ集めたように盛り上がって見える。最近の日本の現代美術家が好きそうな線だが、ポロックの《ポード絵画》とはちがって明らかに三次元の凸面にみえるように描いている。ピクトリアル・イリュージョンである。

62年のケント紙に黒い水彩で描かれた《点》は中心にいくほど線が太く、密度が高くなるが、凹んでいるのか、出っ張っているのか、どちらとも取れる。とくに、三次元のイリュージョンを描こうとはしていないようだ。子供のイタズラ書き風に描いてある。コンセプチャル・アートかもしれない。

60年の《木版の点》はプリントされていない箇所が白い円になっている。地と図の反転があるが、ルービンの杯ほど強い反転ではない。ピクトリアル・イリュージョンとオプティカル・イリュージョンの折衷のようだ。いわば、「穏健なる錯視」というところだ。

61年の《点 No.14》は板にラッカーで描かれている。円ではなく、球のイリュージョンが見える。高松次郎の優れた技量を示している。

61-62年の《点 No.16》は木版の上に、ラッカーに漬けた紐を載せたもの。水平に置いたのか、壁に掛けたのかわからないが、オブジェではなく、浅浮き彫りのようにみえる。

つぎの「布とラッカー」、「針金と紐とラッカー」を使った二作品の《点》は、《No.16》と同じように浅浮き彫りである。浅浮き彫りは彫刻と絵画の両方の特徴を持っており、知覚と想像が拮抗している。美術史的には絵画は浅浮き彫りから三次元の描写方法を学んだといわれている。

最後の61年の二つの《点》は、ともに針金を編んでラッカーを塗ったオブジェだが、一つは網を重ねて寄せ集めたものに、もう一つは針金細工にみえる。すこし離れて正面からみれば、細い針金は線にみえるので、平面が立体に見える絵画的イリュージョンの反対に、立体が平面にみえるのだが、それは一瞬のことで、視線が動いたりすれば、すぐにもとの立体にもどる。錯視(オプティカル・イリュージョン)も作用している。

以上の《点》シリーズの簡単なまとめからも分かるとおり、高松次郎自身は《点》シリーズを社会学的哲学的に説明しているが、実際には《点》シリーズは見ること、すなわち、絵画の「知覚に基づいた想像」にこだわっていたことがわかる。「現代美術」は大雑把に「絵画(想像)、オブジェ(知覚)、コンセプト(意味)」にほぼ分けられるのだが、《点》シリーズの高松次郎の関心は絵画を基礎に三つの領域を横断していた。しかし、そのあとは、絵画の線からオブジェの紐に関心を移し、さらに、「類似」を排除し、錯視のイリュージョンを研究するようになる。《遠近法》や《波の柱》がその例である。

ピクトリアル・イリュージョンとオプティカル・イリュージョンの違いを理解することは、絵画鑑賞の助けになる。同じイリュージョンといっても、ピクトリアル・イリュージョンは想像で、オプティカル・イリュージョンは知覚なのだ。もともと具象的な主題のない抽象画家にとって、空間のイリュージョンを理解するのは難しい。その代わりなのか、オプティカル・イリュージョンの魅力にまけてしまうことがおおいようなきがする。最近も、微かなオプティカル・イリュージョンを抽象画の味付けにした作品を見た。

絵画のイリュージョンは「知覚に基づいた想像」であり、自由な想像や過去の想起とはことなるものだ。知覚しているモノクロ写真の少年は肌は灰色で身長は10センチだが、想像で見る「図像主題」はピンクの肌をした身長120センチの少年だ。ところが、服装をPhotoshopでカラーにすると、肌が死人のように灰色に見える。カラー写真の無彩色は明暗を表すのではなく、灰色の色を表すのだ。知覚に基づく想像は想像だからといって、自由に勝手に想像できるものではない。

《点》シリーズのあと、高松次郎は《紐》シリーズを始める。おもにインスタレーションやパフォーマンスなどのコンセプチャルな表現で、イリュージョンを生むような三次元の線を使った作品ではない。とはいっても、三次元の線はもともとオブジェなので、そうは簡単にイリュージョンを生みだすことは出来ない。デヴィッド・スミスは太い針金などで平面的な線的彫刻を作ったが三次元の絵画的イリュージョンは現れない。平面的にしたことで、かえって、凹凸が強調され、オブジェになってしまったのだ。

高松次郎には「知覚に基づいた想像の目」がない。その代用として彼はオプティカル・イリュージョンやコンセプチャリズムに向かったともいえる。高松は《点》シリーズに関して、「針金は空間を抱え込みながら雪ダルマ式に膨れていくという、一種の増殖性の作品だった。増殖の概念は二十世紀後半の一つの象徴のような気がするが、たとえば人口が増えて困る、商品もゴミも増えて困る、といった、その後の高度成長期の社会不安を無意識のうちに先取りしていたといえるかもしれない。」と言い、さらに《紐》シリーズに関しては、「(紐は)鋼鉄線などと違って柔らかいものだから、定形がない。かんたんにつなげていくらでも長くすることができる。自由な長さそのものなんだな。“最小限の物質性”みたいなものを感じたんです。そしてそういう紐だけがもっている特性に注目したかった。だからそれによってどんな形ができるかといったことに興味はなかったのです。・・・(中略)・・・ (紐は)事物を絡めとり、そのものの機能を奪います。それによって対象の『不在化』を狙うものでした。」といい、《点》シリーズや《紐》シリーズは想像で見るのではなく、もっぱら、社会批判や哲学的な分析をしている。

それでは、三次元の線で現実空間にドローイングを描くことはできないのだろうか。すでに述べたようにデイヴィッド・スミスは平面的な線的彫刻を制作したが、平面的にしたのが逆効果で返って(平たい)オブジェに見えてしまい、知覚作用が強められてしまった。平面の支持体に描かれた線が、いかに「絵画の奇跡」であるかショーヴェの洞窟画には感嘆しないわけにはいかない。

そう思っていたら、偶然に三次元の線で現実空間に描いたドローイングらしき彫刻を見つけた。下のウィリアム・タッカーの彫刻の写真を見てほしい。(画像をクリックして下さい)

William Tucker

もちろんこれは写真だから、三次元の空間も三次元の線も知覚しているわけではない。二次元の写真空間の知覚に基づいて三次元の空間や三次元の線を想像しているのだ。写真はオブジェだといったけれど、写真を見ることで、両眼視差がなくとも、現実の三次元空間を想像することができる。想像は「知覚」を想像することができるが、知覚は「想像」を知覚することはできない。想像することは擬似的に知覚することでもあるのだ。

これ以上の説明の必要はないだろう。このWilliam Tuckerの三次元の線で作られた彫刻にはマッスやボリュームがある。彫刻にも絵画と同じように知覚に基づいた想像のイリュージョンがあるのだ(注1)。現代美術は絵画だけではなく、彫刻のことも忘れ、コンセプチャリズムというおしゃべりに夢中なのだ。

注1:立体の実物の方がマッスやボリュームを感じないかもしれない。二次元の写真の方が想像が働くからだ。絵画的なロダンなどは写真の方がよく見えるのはそのためだ。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.06.02[Tue] Post 23:48  CO:0  TB:0  高松次郎  Top▲

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