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「会田誠の《犬》シリーズは首輪をとったら普通のヌードだ」:佐々木豊

佐々木豊氏という画家がいる。国画会の重鎮らしいが、私の知っているのはインタービューの名人としての佐々木豊だ。今はたぶん画壇の実力派のボス的存在で、怖いものはないのだろう、絹谷幸二のマンネリ化や千住博の画壇遊泳術にそれとなく触れ、山本容子や松井冬子の美人画家にも手をゆるめない。貴重な目利きといえるだろう。

佐々木豊は若い頃からインタービュアや作家訪問記のアルバイトをしている。そのときからの習慣で、取材対象の作家の資料は、今でも手に入る限り目を通しているそうだ。その努力の成果がよく現れているのが会田誠のインタービューだ。誰もが聞きたい下世話な話に見せながら会田誠の芸術の核心に迫っている。

しかし、驚いたのは、「《犬》シリーズは首輪を取ったら普通のヌードだ」という発言だ。手に入る資料を全部読んだのなら、会田誠が《犬》シリーズはライフワークだと言っていることも知っているはずだ。会田誠はいつもの得意の弁解もせずに黙っていたので、かわりに弁解すると、「首輪を取ったら普通のヌードになるのではなく、首輪を付けたから普通のSMプレイになったのだ。」

そこまでいうなら、佐々木豊はどんなヌードを描いているのか、検索してみた。なるほど、これなら、会田誠の《犬》シリーズが普通のヌードだと言うわけだ。と言っても、佐々木豊のヌードが特別のヌードだといっているわけではない。ジャンルはちがうけれど、彼のヌードもまた「普通のヌード」なのだ。公募団体に受け入れられるような、程々にエロチックな、日本人なのか白人なのか判らない、アマチュアのヌードデッサンのような貧乏臭いところもなく、バルテュスのパロディがあったりする。野性的といえば野性的な、胸がギリシアの男子像に似たところのある女のヌードだ。エロを抑えて、芸術っぽく見せている。

日本では黒田清輝の《智・感・情》以来、無国籍的なヌードの伝統がある。戦後はとくにそうだ。藤田嗣治、東郷青児、池田満寿夫など、それに佐々木豊を加えてもいいだろう。他にも沢山いるだろうが、詳しくない。ニョウボに佐々木豊のヌードを見て誰を思い出すかと訊いたら、思いがけなく和田義彦と答えた。しかし、言われてみれば、国画会に所属して、受賞歴も順調で、玄人筋の評価も高く、画壇の出世も約束されていたようなものだったけれど、佐々木豊のような国画会風の絵肌やマチエールを活かした華やかな絵は描けないし、イタリアものばかりで、引き出しも多くはないということで苦労したのだろう。

いずれにしろ、会田誠の《犬》シリーズは、SMの主題を除いて見れば、それは「普通のイラスト」だと佐々木豊は言っているわけで、反対に会田誠から見れば、佐々木豊のヌードは公募団体の重鎮の手馴れた「普通のヌード」だろう。佐々木豊の《ヌード》は地方の美術館が安心して購入できるような絵だし、会田誠の《犬》シリーズはロリコンたちの特別の目的に役立ちそうな美少女の絵だ。

会田誠は「美少女画」を確立した画家だ。多くの場合、ヌード画には顔が邪魔である。からだの線ではなく、顔の表情が視線を惹きつけるからだ。佐々木豊のヌードの顔は個性的だが、みな同じ顔だ。しかし、「美少女画」は顔が重要だ。《犬》シリーズの五人の美少女の顔を描き分ける会田誠の画力は、たとえ写真を使ったとしても、半端ではない。小説『青春と変態』に、スキー場のトイレで覗いたお尻があまりにも美しかったので、きっと美少女に違いないと確かめるために、スキー靴を目印に少女を追いかけるが、見失って、悔しがる場面があるが、美少女とは会田にとってそういう存在なのだ。

佐々木豊と会田誠の二人のヌードは、いくらボーダレスといっても、やはり、洋画と日本画の違いがあるといったほうが分かりやすいのだけれど、それぞれにそれなりの評価を受けている。公募団体の洋画がウォーホルのプリントに必ずしも劣っているわけではないし、ベーコンの奇形が会田誠の《犬》シリーズより高級だというわけでもない。

そうではあるが、二人のヌードに共通に欠けているものがある。それはマチスにあって、二人にはない線の魅力だ。ダンスの線、ドローイングの線、カット・アウトの線など、マチスが生涯苦しんだ「線と色彩との葛藤」である。線の魅力が増していくに従って、ヌードの顔は次第に「へのへのもへじ」になっていく。そして、《ブルーヌード》ではついにノッペラボウになる。

線のことで、わざわざマチスを持ち出す必要はない。マチスがデッサンの大家と認めた北斎が日本にはいる。北斎の線といえば、『北斎漫画』の写生の線がよく知られているけれど、北斎の本当の魅力は春画にある。なかでも、《富久寿楚宇》のヌードはピカソのエッチングの誇張・デフォルメのエロスを超えて、マチスの「感情の遠近法」に近づいている。

佐々木豊のヌードも会田誠のヌードも、その方法は異なるが、ともに単純なエロにならないように工夫している。演劇的な身振りや装飾性、あるいは、コンセプチャルな主題や癒やしを付け加えている。「魅力的な線はすべての絵画のレトリックを浄化する」 しかし、残念なことに二人には魅力的な線がない。佐々木豊はヌードを描くより、日本人ばなれしたゴージャスな「赤い薔薇」がふさわしいし、会田誠は美少女より、《書道教室》や《I-DE-A》などのコンセプチャルなものが優れている。とくに、美少女=パフォーマンスの《I-DE-A》は、コスースのコンセプチャル・アート《1つおよび3つの椅子》がプラトンのイデア論のイラスト(図示)に堕しているのに対し、美少女のイデア(言葉)でオナニーをするパフォーマンスで、本家のコスースよりもコンセプチャル・アートの真髄を表現しえている。

それはともかく、北斎の春画《富久寿楚宇》は日本のサブカルチャーの奇跡である。もともと北斎の春画は、歌麿の華奢な手足の春画にくらべると、その素描力は格段に優れているのだが、この《富久寿楚宇》に至って、男女とも全裸が多くなり、線のデフォルメや身体のパーツの誇張は、晩年のピカソのヌードを彷彿とさせるものになっている。性器を見せるためだった春画の歪みが、キュビスムの視点の多様性になっているのだ。

日本の近代絵画は、自分たちの国にある北斎春画のモダニズムに気づかずに、遠いフランスのアカデミズム化したヌードを模倣していた。明治の近代化は浮世絵をサブカルチャーとしておろそかにあつかった。春画は反近代的なポルノフラフィーとして無視され、ついでに、北斎の中にあったモダニズムまで捨てられてしまった。そして、百年後の画家たちも北斎春画のモダニズムをいぜんとして忘れたままだ。

ニョウボは今、北斎春画の中のピカソとマチスにつながるモダニズムの線を忘却の渕から救いだそうとしている。



スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.02.23[Mon] Post 21:29  CO:0  TB:0  佐々木豊  Top▲

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