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『高松次郎 ミステリーズ』展 : 国立近代美術館



国立近代美術館の『高松次郎 ミステリーズ』に影絵の体験コーナーがあった。ニョウボ(佐藤順子)がスクリーンの前で、早速、バレーのポーズの真似をしたり、手影絵で遊び始めた。撮影可なので、携帯で写真を撮った。

影は何より影絵遊びだった。昔は障子があったから子供は「手影絵」で遊んだ。原っぱで呪術的な「影踏み」もできた。同じように、白土三平の「影縫いの術」はクナイで敵の影を縫い付けて、動けないようにする忍術だ。そして、影絵遊びの圧巻は中国映画『活きる』に出てくる『影絵芝居』だろう。平面的な人形の動きが生み出す三次元の世界には、文楽や歌舞伎とは違ったサブカルチャーの粋がある。

しかし、高松次郎の《影》シリーズは「影絵遊び」ではない。「絵画の探求」なのだ。

影絵とは別の影がある。それが「絵画の起源」としての「影」だ。出征する恋人の兵士の影の輪郭線をなぞって、残った線描で恋人を偲んだという話が大プリニウスの『博物誌』にある。しかし、これをもって絵画の起源が影であるとするのはどうだろう。恋人が出征したあとに残ったのは影ではなく、線描(drawing)である。

従って、絵画の起源は線なのだ。実際に洞窟画は線描から始まっている。しかし、線だけでは絵にならない。線が絵になるためには「類似」が必要だ。何かに似ていなければ、それは模様か、さもなければイタズラ書きだ。類似を得るために影の輪郭線をなぞる必要はない。ラスコーの住人は野牛の影をなぞったわけではない。おそらく記憶で描いたのだろう。恋人に似ていなければ「恋人の絵」とはいえない。そのためには横顔の輪郭線でなければならない。正面の顔では恋人を偲ぶことは出来ない。しかし、それが「人の形」に似ていれば絵画だといえることになる。何かに似ている形を線で描くことが絵画の起源なのだ。

さらにもう一つの〈影〉がある。それが廉価な「絵画の代用品」としてのシルエットだが、シルエットの縁(フチ)の線の類似が肖像画として重要な役割を果たす。正面の影は肖像画にならない。もちろん〈影〉そのものは絵画ではない。輪郭線やシルエットが木炭や絵具などの物質的な存在になってはじめて影は絵画になる。

展覧会カタログの『高松次郎 ミステリーズ』は高松次郎の詳細な研究書であり、たぶん予備知識なしで読んでも混乱するだけだろう。中ザワヒデキが高松次郎を主知主義的動向に属する「日本概念派」に分類していることからも分かるように、簡単なことを簡単に言えば済むところを、高松次郎は意図的にポイントを外して、難しく言うところがあるので注意しなければならない。理論無しで、作品を素直に見たほうが、高松次郎のトリックを容易に見破ることが出来るだろう。以下、展覧会を見るための一般的な注意事項あげておく。

1)高松次郎は全画歴を通じて「線の問題」を探求している。紐は三次元の線だし、影は輪郭線だし、遠近法は線遠近法だし、《波》シリーズはオプティカル・イリュージョンの線だ。後期の《絵画》シリーズも「直線」に取り組んでいるのだが、どういうわけか絵画に必要なもう一つの条件である「類似」が殆ど無い。抽象画であっても、例えばポロックの線には、「描くことと偶然」がある。そういう事もあって、「つまらない」のは後期だけではない。前期も後期と同じ同じように「つまらない」のだ。高松次郎にミステリーはない。あるのはトリックだけだ。

2)「イマージュ」という言葉は曖昧だ。サルトルが出てきたら、まずは、疑ってかかったほうがよい。何度も同じことを言うが、絵画を見るということは、「知覚に基づいて想像する」ことであり、自由な想像や過去のことを想起したりすることとは異なる想像作用なのだ。サルトルの想像は無化するというが、絵画の想像は知覚している図像客体を中和化するけれど、無化はしない。モノクロ写真の灰色の身長5センチの少年は、相変わらず知覚されているけれど、その知覚の存在措定は中和化され、灰色の少年の代わりにピンクの肌をした120センチの少年を想像している(見ている)のだ。

3)もう一つ重要な区別は、ピクトリアル・イリュージョンとオプティカル・イリュージョンの区別だ。ピクトリアル・イリュージョンというのは「知覚に基づいた想像」のことで、通常の絵画のイリュージョンのことだ。それに対してオプティカル・イリュージョンというのは、知覚の異常な焦点などから生じる錯視のことで、あくまでも知覚の仲間であり、ピクトリアル・イリュージョンのように、知覚に注意を向けたり、イリュージョンに注意をむけたり、自由にすることは出来ない。

以上の三つを忘れないようにして、『高松次郎 ミステリーズ』展を見にいけば、極めて楽しい展覧会になるだろう。


スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.02.11[Wed] Post 15:07  CO:0  TB:0  高松次郎  Top▲

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