ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

スポンサーサイト のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/951-d25e5252
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

会田誠の「表現の自由」について: 二つの自由《ポルノの自由》と《デモの自由》

去年、二つの「わいせつ物関連事件」があった。ろくでなし子の「女性陰部データ」頒布事件と鷹野隆大の「写真展警察介入事件」だ。ろくでなし子事件については椹木野衣が『象徴としてのわいせつ---ろくでなし子と赤瀬川原平』を書き、鷹野隆大事件については土屋誠一が『ポルノである、同時に、芸術でもある』を書いた。

しかし、この分野の第一人者であるはずの会田誠は「北原みのりさんが逮捕されたニュースに『負けた…』と思う僕の捻れた感覚を告白しておきます。」と何やら切腹しない三島由紀夫みたいなことを言ったまま沈黙していた。

ところが先日、以下の「表現の自由」に関するツィートをした。

2年前にも書いたが、僕は「表現の自由」という言葉を脳内でさえも一度も使ったことがない。これからも。使ったら「ある大切な野蛮さ」が死ぬ。美術は現代においては「アイズ・ワイド・シャット」のように地下に潜るべきか(金も権力もないけど)。 都美術館で天才ハイスクール‼︎‼︎を見ながら。 ↑ 2015.01.10 12:35

相変わらず難解で曖昧な表現だが、会田さんが現代の日本の美術家の中で一番深く「表現の自由」について考えていることは間違いない。それは、彼が、「表現の自由」が一番問題になる「ポルノと政治」の両方の主題で描いているからだ。

彼の絵の原点はすでに何度も言っているとおり中学生のときの「自家製自家用ポルノ」なのだから、親に見つかって叱られたからといって、「表現の自由」を持ちだして反論するわけにはいかない。ポルノを描くのをやめるか、安全なところに隠して置くかしなければならない。

会田誠の「大切な野蛮さ」とは何か。ふつうに考えれば椹木野衣が指摘した「児童ポルノ」のことだろうが、そんな大袈裟に考えることもない。フェミニストが《犬》シリーズは自慰の「おかず」だと批判するなら、会田さんの「美少女」パフォーマンスの《美少女》の赤い大きな文字も同じようにポルノということになる。会田はニューヨークでこのアイディアを思いついたという。おそらく、英語ばかりの中で久しぶりに「美少女」の漢字を見て、中学生のときのような興奮を覚えたのだろうが、豈図らんや一時間以上かかったという。ともかく、会田誠は観念をporno-graphyにすることで「表現の自由」を手に入れた。観念を罰するなんて誰にも出来ない。このパフォーマンスで、ポルノを取り締まろうとする官憲を揶揄しているのかもしれない。

現代美術の性の問題は、《芸術か猥褻か》ではなく《ポルノと性犯罪》へとシフトしており、現在では「芸術か猥褻か」の視点で芸術を論じることはほとんどなくなった。しかし、椹木野衣氏は森美術館の『会田誠 天才でごめんなさい』展の展評で、この枠組を使って会田誠の作品は未だ「芸術か猥褻か」の歴史の検証をうけていないと批判した。それに対して会田さんは「ポルノと性犯罪」の視点から、リアルと想像は区別すべきで、ポルノで性犯罪が増える事実はないと答えている。児童ポルノの写真が犯罪なのは、写真はそのまま児童虐待の証拠になるからだ。

それに比べ、椹木野衣さんと土屋誠一さんはどうしてもポルノ規制を「国家権力の弾圧」にしたいようだ。「表現の自由」を守るために、土屋誠一氏は「ろくでなし子氏の作品が優れているか否かは超どうでもいいこと。以前から何度も言っているように、これは美術にかかわる『私たち自身』の問 題」だと、ベ平連のようなことを言う。また、椹木野衣氏は「表現の自由はおろか、表現者が当の表現ゆえに接見禁止付きで身柄を束縛され続けるという異常な事態となってい るにもかかわらず、『どこか対岸の火事』なのである」と言う。この『対岸の火事視』というのもベ平連か大好きな言葉だった。

もちろん、国家の弾圧とは戦わなければならない。しかし、そこに「表現の自由」を持ち込むと、芸術は根拠を失い、「表現の内実」はバラバラになって雲散霧消してしまう。土屋誠一氏はまさに「ろくでなし子氏の作品が優れているか否かは超どうでもいいこと」と言っている。これこそまさに「芸術の終焉」と言うべきではないか。

絵画における「表現の自由」(柿栖恒昭『現代絵画の再生』kindle版)は宗教画や歴史画の主題や写実的描写から、モダニズムの「自由な対象選択」や「自由な対象描写」となって、印象派、野獣派、キュビスム、抽象画を生んだ。ところが、現代美術になると、「表現の自由」はますます激しくなって、それまでは表現価値のためにあったはずの自由が、対象であろうが、描写技法であろうが、これまでとは違った新奇珍奇なものなら、何でも芸術だというやりたい放題の自由になった。そこから、レディ・メイド、オブジェ、パフォーマンス、インスタレーション、コンセプチャル、ポップ、グラフィティなどが生まれ、さらに、理論まで作品から自由になって、理論に理論を積み重ね、ちょとした差異や着想を流行の哲学や思想で飾り立てることで、「美の官僚」たちが美術館や補助金、そして、文化行政やメセナまで支配している。

中ザワヒデキの『現代美術史 日本編』は、日本の現代美術の「表現の自由化」現象を、前衛と反芸術と多様化の三つが繰り返えされるという「循環史観」にまとめた労作である。戦後最初の「表現の自由」は「具体」の代表吉原治良の「今までになかった絵を描け」という「前衛」運動からはじまった。そのあと、ネオ・ダダなどの「反芸術」、そして「もの派」や「概念派」の還元主義、再びポストモダンの脱前衛へと、次から次と新奇珍奇なものが現れては、次のものと交替・循環していく。これでは自由ではなく、堂々巡りの閉塞の時代ではないか。

今の現代美術家は評論家を兼ねている事が多い。そうでなくてもよく喋る。そうなれば「表現の自由」はますます放恣になる。マチスは画家になるなら舌を切れと言った。そういうマチスこそよく喋ったが、彼が喋ったのは、例えば「線と色の永遠の葛藤」についてなど、大抵は「表現の不自由」についてだ。

「表現の自由」に殺されるという会田誠の「大切な野蛮さ」とはなんだろう。それは道徳的な悪ではない。画家の魂の奥底にひそんでいる何かだ。


スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.02.01[Sun] Post 10:55  CO:0  TB:0  ろくでなし子  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

会田誠の「表現の自由」について: 二つの自由《ポルノの自由》と《デモの自由》 のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/951-d25e5252
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。