ART TOUCH 美術展評

久米宏のCAR TOUCHにならって、五つの項目に分け、5点法で美術展を評価します。美術展を楽しみながら、現代美術理論の理解を深めます。

山口晃(1)

  山口晃展:Lagrange Point(ミズマアートギャラリー)★★★☆

 今回の展覧会は、これまでの大和絵風イラストとはまったく異なる展覧会になっている。図像を読み解く楽しみだけではなく、「絵を体験する」というテーマに挑戦したというのだ。
 確かに、現代のペーター・ブリューゲルと言われる山口の卓越した人物描写をルーペで見るような楽しみは、今回の作品にはない。そのかわり、線描の達人と言われる技術で描かれた四天王像などが展示されている。
 絵を見るのではなく、「体験する」ということはどういう意味だろう。今回の展覧会は、人物がモノクロの線描で、かつ等身大に描かれていること、展示がインスタレーションになっていることが特徴である。*
 五階の展示場は、等身大の四天王像などが観者の周りを取り囲んているのだが、これは、「結界」を形成しているというのだ。それなら、人物を等身大に描いた理由もわからないではない。等身大に描くことで、観者と描かれた人物がおなじパースペクティブに収まるからだ。しかし、いくら等身大だからといって、平面作品(絵画)で観者を取り囲んでも、インスタレーションにならない。立体ならば、観者の空間と作品の空間は容易に融合するのだが、絵画はいくら等身大に描いても、人物像はイメージ空間に閉じこもったままなのだ。彫刻の空間は開かれているが、絵画の空間は本来、閉じられた空間なのだ。(ホームページ「絵画の現象学」参照)
 仏画のように周りを暗くして、蝋燭で照らせば結界を作り出すこともできるだろう。しかし、それは、観者の身体空間を暗闇に消すことによってであり、観者を包み込んだインスタレーション空間を作り出すことではない。
 このことを十分に承知している山口は、束芋(原美術館)がやったようなビックリハウスをつくらず、絵画をあくまで絵画として、蛍光灯のあからさまな光の下に展示したのだ。このことで、たしかに、絵画の支持体(物理的絵画)と観者の距離は体験しうるものになったが、(山口は衝立のようなものに支持体を張って観者を取り囲むようにもしている)そのぶん、図像空間との距離は大きくなったように感じられる。また、絵画は床から高い位置に展示されているので、四天王が観者の立つ大地(床)から浮き上がっているよう見えてしまう。(写真中京大HP参照)
 体の大きさは遠近法的に連続しているのに、足が、観者と同じ床面に立っていないので、違和感が生じるのだ。床よりも高いところに展示された等身大の図像が、浮き上がったように不自然に見えると言う現象は、たとえば、等身大に引き伸ばした全身のポートレイト写真展を見るときにいつも感じる違和感である。写真は絵と違って非常にイルージョン(錯覚)を起こしやすい図像で、観者の空間と写真に写っている空間の遠近法が連続していると、写真が現実だと錯覚することがしばしばある。
 話が、まわりくどくなったが、いずれにしろ、絵画の図像空間は知覚空間とも想像空間とも異なる独特の空間ということである。(ちなみに錯覚とは知覚ではないものを知覚と思いこむことである)このまったく異なる図像空間と知覚空間を融合させようというのが、山口の「絵画を体験」させるということだと思われる。
 二階に降りると、五階とは少し趣のことなるインスタレーションがある。中京大HPの写真にあるように、兵士たちの切り抜きが並べてあるのだ。少し長いが中京大HPの説明文を引用させて頂く。

 「無機質な白く狭い通路に入れるのは一度にひとりだけ。その先には、武器を持ち戦いに備えて命令を待つ何千何万の群集が観客を迎えます。観客はただひとり、描かれた群衆と対峙することになります。あたかも命令を待っているかのような軍隊に囲まれたとき、ひとは何を感じ、どう処するのでしょうか?」

 写真で分かるとおり、切り抜きの兵士は三次元の知覚(現実)空間(展示室)に前後に重なるように並べられており、観者は兵士を見下ろす位置にいる。ということは、観者は兵士と同じ三次元の現実空間の少し高い位置に立つっていることになり、五階のような違和感は生じない。しかし、それなら、これは絵画ではなく、立体的な作品ということになって、作者の「絵画を体験する」という趣旨に背くことにはならないか。
 ところが、作者山口晃は巧妙な仕掛けをしている。二階の展示室の入り口に、「片目で見て下さい」と書いた紙が貼り付けてある。兵士はもともとボール紙に線描したものを
切り抜いた絵なのだ。それを等身大ではなく、観者からのきょりによって縮小した兵士をならべているので、ちょうど私が、ニキ・ド・サンファルのところで名付けた「立体遠近法」になっているわけだ。そこで、片目をつぶれば、奥行き感覚がなくなって、兵士は前後ぴったりと重なって本物の絵のようになる。遠くの兵士は切り抜きではなく壁(紙?)に遠近法で描かれているのだが、その兵士と切り抜きの兵士が同じ平面に描かれているように見える。
  ところが、現実には三次元空間なので、片目をつぶったままでも、頭を動かせば、前後の兵士の重なり具合が変化して、立体的な奥行き感が現れてくる。
 これは不思議な体験だ。両目で見ているときは、たしかに現実の奥行きはよく見えるのだが、そのかわり、兵士が紙にかかれたモノクロの、むしろ生気のない線描画に見え、片目をつぶると、現実空間の奥行きは消えるけれど、兵士たちは一枚の絵画空間のなかで生命を取り戻し、まことに、上に引用したような世界が繰り広げられる。兵士たちをモノクロの線描にしたのはおそらく立体と絵画のこの違いを際立たせるために違いない。(これはフッサールの図像客体と図像主体の違いと密接に関係している。詳しくは「絵画の現象学」へ)
 これが山口晃のいう「絵画を体験」するということなのだ。
 絵画の終焉というより、絵画の忘却と言った方がいいようなインスタレーションばやりの中で、山口は、動画や暗闇や効果音という姑息な手段に頼らずに、正面から絵画の問題に取り組んだことは、むしろ驚くべきことだ(わたしには、山口晃が絵画を、デュシャンが破壊した瓦礫の中から救い出そうとしているようさえ思える)。
 山口は、たんなるイラストレーターではなく、古典と現代、西洋と日本を超克するアーティストとして高い評価を内外で受けている作家だ。そんな作家がなぜこの時期にこんなことを始めたのか、何年もあたためていたプランだというのだが、正直言って分からない。
 図像主義者である私から見れば、不遜な言い方だが、まるで私の絵画理論を図説して貰ったような展覧会なのだが、さて、作品として見た場合はどうだろう。たしかに、絵画というものの本質を分かりやすく具体的に示してくれたのはたしかである。しかし、結局のとこと、立体と平面の境界を利用した面白いインスタレーションというだけで終わってしまうのではないか。観者が中国古代の大軍勢の指揮官になったようなイルージョンを体験できるのだとしても、これがいったい絵画本来の面白さであろうか。
 もちろん、山口には何か期するところがあるに違いないし、かれの絵画の探求はこれから始まるのだろう。そうでなければ、彼がこれまでに確立した画家としての地位やスタイルを捨てることになるかもしれない今回の試みの真意を理解することはむずかしい。
 もっとも、これは、ちょっとした遊び心であって、また、イラストレーターとしての仕事に戻るのかもしれない。
 とにかく、わたしにとって、この山口晃の展覧会は、大竹伸朗展を含めて、今年最大の収穫であった。
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PS:途中から評価が変わったので、文脈が乱れています。いずれ、山口晃論はホームページに書きます。

 
   
2006.12.21[Thu] Post 23:34  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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