ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

スポンサーサイト のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/928-68f4f5cb
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

佐藤順子の伝記作者の憂鬱② 《永井荷風と高階秀爾の北斎》 

今朝、目を覚ますとまだ薄暗かった。Kindleで永井荷風の『江戸芸術論』の『泰西人の見たる葛飾北斎』のところを読んだ。Kindleは明かりを付けなくても読めるのが重宝だ。ニョウボが目を覚ますとその日一日中文句を言われる。眠られないままその章の終わりまで読んだ。最後のところで、荷風は「北斎は近世東西美術の連鎖だ」といっている。オランダの山水画の影響で成立した北斎の芸術は西欧の印象派に影響を与えた。そして、その印象派が明治維新で日本に洋画としてやってきたとき、北斎の本国で北斎のことは忘れられていたと言うのだ。荷風は鑑賞家コレクターのことを言っているのだが、画家もおなじことで、かねがね日本の近代美術は日本画も洋画も北斎を無視することから始まっているという私の主張と重なる。

今、ニョウボの佐藤順子は北斎の春画漫画を借用してマチスの「線と色彩の葛藤」に頭を悩ませている。ニョウボは北斎とマチスの線にしか興味を示さない。しかも、ニョウボの「線を見る目」には分からないところがある。例えば二人の間でマチスの《ダンス》の事がしばしば話題になった。というのも、《ダンス》はニョウボが一番好きな絵だと言っていたし、わたしもマチスの中でなんとなく良さが分かってきた最初の絵だったからだ。ところがどうも話が合わないと思ったら、私の言っていたのはあの五人が輪になった、有名な方の《DanceⅡ》で、ニョウボが言っていたのはバーンズ財団の《Dance》だった。

もっと奇妙だったのは、北斎だ。国立博物館の『北斎展』(2005年)に行ったが、浮世絵を楽しむほどの知識はなかったし、《富嶽三十六景》のデザインが素晴らしいぐらいの感想しかなかった。そもそも『春画』はなかったし、『漫画』も数が少なかったこともあって、印象に残らなかった。ところが、ニョウボは「相撲取りの絵が一番良かった」と意表をつくようなことを言った。相撲取りの絵は漫画やメンコでよく知っていたし、浮世絵も少年雑誌の口絵などに載っていたので、「本物は迫力があるなぁ」と思ったけれど、あらためて仔細に見る気にはならなかった。それが最近、ニョウボが北斎の春画をもとに男女のダブル・ヌードを描いているのを見て、ふと思い立って、『北斎展』のカタログを見てみた。


            葛飾北斎  《鬼面山谷五郎と出羽海金蔵》

そこには男二人の「ダブル・ヌード」があるではないか。ニョウボに相撲を「春画」として見ていたのかと訊ねると、そうではない、ただ、あの時は、他のと比べて一番線が生きていると思っただけで、今は『漫画』の相撲の方が好きだという返事だった。佐藤順子には相撲の取り組みの片方をビキニの女性に入れ替えたエッチングがある。ビキニを回しに見立てた作品だ。



北斎の線はアカデミーの正確な写生の線ではなく、マチスの「線画は私の感動の直接の、もっとも純粋な翻訳」の線だ。言い換えれば、北斎の線には人間への愛がある。さらに言えば、江戸時代の日本人への愛だ。北斎の相撲の絵を見れば、相撲が神事だったことがわかる。北斎の線はビゴーの風刺の線ではなくマチスの線なのだ。永井荷風の「北斎忘却」の嘆きの言葉を引用しよう。

しかしてこの新しきフランスの美術(印象派)の漸く転じて日本現代の画界を襲ふの時、北斎の本国においては最早や一人の北斎を顧るものなし。


北斎は晩年に画を極めるために漫画春画の浮世絵から離れ、故事古典や動植物宗教画に画題を変えていった。北斎自身が北斎を忘れたのだ。

マチスは1937年に書いたエッセイ『とりとめもなく』の中で、アングルの「デッサンは芸術の誠実さである。」という言葉は「服の裁断と仕立てに失敗して、体を締めつけ、その動きを不随にするような手直しをいくつもやって服をお客の体に密着させることで窮地を脱しようとはかる仕立屋を思い浮かべる」と言う。ルノワールやセザンヌがそんなことを言うだろうか、言わないだろう。しかし、すぐれたデッサン家である北斎が“画狂老人(vieillard fou de dessin)”と呼ばれるときには私は差し障りをかんじないと、マチスは言う。仏蘭西の素描の大家がそういうのだから、北斎の線はたんなる写生の線ではなく、アカデミーの解剖学の線に反抗したモダニストの線だということだ。

『VOCA展』の審査委員長をしている高階秀爾という美術史家がいる。日本近代美術史の第一人者であり、『日本近代美術史論』という著作があるのだけれど、その中の『狩野芳崖』の章の冒頭に、1958年パリで『日本古美術欧州巡回展』が開催されたときの奇妙なエピソードが書かれている。58年といえば、マチスが世を去ってまだ数年である。そんなとき、連れ立って『巡回展』を見に行った仏蘭西と日本の若い美術研究者が日本古美術評価、すなわち、永徳と雪舟等伯をめぐって、気まずい雰囲気が生まれたというのだ。フランス人は永徳が一番良いと言い、高階は雪舟等伯がしっくりくると感じる。

高階秀爾は「もしかしたら、この行き違いは、仏人が水墨画が分からないという以上に、現代のわれわれは狩野派が分からなくなっているのではないか」と言いながらも、仏蘭西の研究者はともかく、わざわざパリまで仏蘭西の近代美術史を学びに来ている高階秀爾が、「まことに近世東西美術の連鎖だ」と荷風が言う北斎に一言も触れないのは、怪訝というほかない。

高階秀爾は、フェノロサと天心の「日本画復興」の運動が日本画の発展に寄与し得たのは、江戸三百年の狩野派アカデミズムの地盤があったからだと、随分と政治的な発言をする。しかし、日本画が発展したというのは本当だろうか。むしろわれわれは明治以来の日本画洋画の近代絵画が「現代美術」のポップやコンセプチャリズムまで劣化したのは何故かと問うべきではないか。

仏蘭西のモダニズムは印象派がアカデミーのサロン展に反旗をひるがえしたことからはじまった。そして、マチスたちがアカデミーのデッサン教育に反抗することでモダニズムの精神を引き継いだ。マチスの線は、大袈裟に言えば、ポロックのポード絵画にも生きている。同じように北斎も狩野派アカデミズムに「反抗」した。しかし、日本にはモダニズムの自己批判の精神はなかった。線は写生の手段だった。遠く泰西では北斎のモダニズムは理解されていたけれど、日本では北斎の線を含めて浮世絵はあくまでサブカルチャーだったし、その誤りをただす美術史家は現在に至るまでいない。せいぜいのところ北斎は「奇想の系譜」に属する絵描きなのだ。

狩野派アカデミズムを引き継いだという日本画の線は、もちろん北斎の線とは似てもにつかぬ線だ。佐藤順子は北斎の漫画春画の線をマチスの線につなごうとしている。しかし、誰にも理解されないだろう。佐藤順子の伝記作者の憂鬱な日々は続く。






スレッド:絵画・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2014.09.13[Sat] Post 01:28  CO:0  TB:0  北斎  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

佐藤順子の伝記作者の憂鬱② 《永井荷風と高階秀爾の北斎》  のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/928-68f4f5cb
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。