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「宇宙は正方形である」 マレーヴィチ : 村上隆と千住博

この言葉は、そのままマレーヴィチが言ったわけではない。しかし、彼の最初の「スプレマチズム絵画」は《白地の上の黒い正方形》だったことを考えれば、マレーヴィチが言ったとしてもおかしくない。彼の『キュビスム、未来主義からスプレマチズムへ』(宇佐美多佳子訳:水声社)から引用する。

正方形は無意識的なフォルムではない。それは直感的理性による創造である。
新しい芸術の顔!
正方形は生ける御子である。
芸術における純粋な創造の第一歩。ここにいたるまでには、稚拙な歪曲と現実の模倣があるのみであった。

キャンバスの規格にはF、P、M、Sがあり、FはFigure(人物)、PはPaysage(風景)、MはMarine(海景)と主題別なのだが、SだけがSquare(正方形)という幾何学図形の形式名になっている。正方形が純粋な創造の始まりかどうかはともかくとして、キャンバスとしては扱いにくい特異なフォーマットであることは確かだ。

ところがこの扱いにくいS規格のキャンバスを多く目にする機会が最近続けて二度あった。

一つは、『上野の森美術館大賞』展だ。受賞作や候補作の大方がS100号の作品だった。カタログで受賞作の歴代リストを見ても明らかにS100が増えている。何か旧勢力のF100と新興勢力のS100が争っているように見える。今年の選評を読めば、何かしらの作為を感じるが、これはまたあらためて考えることにして、ここでは「絵画の問題」を考えることにする。

「何も描かれていない白いキャンバス」で思い出すのはグリーンバーグの「ミニマムな絵画」(「ミニマル・アート」ではない)のことだ。絵画が絵画であるための制約とは何か。

(それは)平面性と、その平面性の限界づけである。言い換えれば、これらたった二つの基準に従うことで、絵画として経験され得る物体を創造するには充分なのである。それゆえ、伸張され鋲留めされたキャンバスは、すでに絵画として存在するーーただし、必ずしも成功した絵画ではないが。(『抽象表現主義以後』)


白いキャンバスでも壁に掛ければ最小限のイリュージョンが生じる。長方形のキャンバスを横に置けば左右のベクトルが生じ、縦に置けば上下のベクトル生じる。それに対して、正方形は縦横拮抗して零ベクトルである(いい加減な比喩です)。この正方形の性格を利用した抽象画がある。ロバート・ライマンの《白い正方形の絵画》は、正方形の反イリュージョンを利用して、筆触、材質、絵具などの絵画の物理的側面を露わにしている。他方、マチスの《かたつむり》は正方形の零ベクトルを利用して回転のモーメントを生み出している。

もう一つの正方形は村上隆の『Flowers』シリーズだ。村上隆のファンがツイッターで投稿した「カフェ・ジンガロ」(?)の写真を見て違和感を持った。インテリアが喫茶店にしてはどことなく落ち着かない。椅子やテーブルのデザインが何か変なのだ。今の流行なのだろうと思ったけれど、壁に掛けてある三枚の『Flowers』の方は、大きすぎてどうも納得がいかない。斜めに撮った写真にもよるのだろうが、キャンバスが正方形に見えたことも、違和感を強くした。

それで、〈Flowers〉で検索してみた。正方形のものが沢山あった。矩形のものもあった。花ではなく、ドクロのものもあった。いろいろ眺めているうちに、明らかに村上隆は正方形や矩形のベクトルの違いを意識してデザインや構図を考えていることが分かる。色の組み合わせ、同色の連なり、大小や重なりの遠近法、視線の誘導、同じ大きさのものや同じ色のものの繰り返してのリズム、そして一つだけ王様のような特別の花などなど、『首振立体視』()もハッキリと現れる。

村上隆の《Superflat》は、「平面的で二次元的な絵画空間を持ち、余白が多く、また、遠近法などの技法をあまり使わない」(Wiki)と言われているけれど、この正方形の《Flowers》を見れば、漫画アニメぬりえの平面性は昔のことであり、今の村上隆は欧米の遠近法や構図や色彩対比や動線の文脈の中で仕事をしていることが分かる。

このことが、村上隆の『メディア芸術祭』のシンポジウムでの怒りに関係があるのかないのかわからない。そもそも、「西欧の現代美術の文脈」というのが他のシンポジウムの参加者にも分かっていないし、何より議論を整理すべき楠見清が村上隆の怒りの標的になっているので、ますます混乱に拍車がかかる。しかし、一番事態を複雑にしているのは、村上隆が日本にはポップがないと言いながら、当然批判すべきと思われる他の二人の中原浩大とヤノベケンジを批判しないことではないか。

ポップ・アートはウォーホルの「普通のものを普通に描いた」《キャンベルスープ缶》の誤解によって変質し、新奇珍奇な対象や表現手法を競うバブル現象になった。村上隆の「スーパーフラット」が「ポップ/ネオポップ」とどう関わっているか詳らかではないが、初期の「おたく」の盗用と言われた頃と比べれば、《Flowers》シリーズをそう簡単にポップ/ネオポップと片付けるわけにはいかない。

「正方形」という特異なフォーマットの視点に限っても、例えば、ほぼ正方形のピカソの《アヴィニョンの娘たち》、マレーヴィチの《白地の上の黒い正方形》、マチスのカットアウト《かたつむり》、ロバート・ライマンの《白い正方形の絵画》などは、絵画の新しい地平を開いたともいえる。もちろん村上隆の《Flowers》が絵画の新しい地平を開いたなどとは言わない。しかし、村上隆が西欧の絵画の文脈の中でオーセンティックな戦いを闘っていることは今の堕落した日本の美術業界の人間たちもそろそろ気づいてもいい頃だろう。

いい忘れたことがある。村上隆の《Flowers》の動線は計算されたもので、マチスの自由な視線の流れとは異なるものだ。それが『カフェ・ジンガロ』の写真を見た時の違和感だと思う。それから、『上野の森美術館大賞』受賞作や審査委員の展示作品もS100なのだが、そこには見るべきものは何もない。

2014.05.22[Thu] Post 00:04  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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