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(3)『漫画とアニメと絵画』:絵画における「空間と運動」 会田とマチス

絵画では「空間や運動」はどのように表現されるのだろう。

映画やアニメなどの動画はもともと残像を利用して動きを表わすメディアだから、あらためて論じるまでもないだろう。また漫画の一齣ひとこまは静止画だが、コマとコマの間は想像力が補うので、映画やアニメよりもむしろ活き活きとした運動が表現できる。CGが進歩してもしばらくは漫画優位の時代が続くだろう。もちろん優れた漫画だけのことだが。

絵画はいわば一枚の「静止画」とも言えるのだが、その絵画の「動き」については例えば未来派のスピード表現などに関連してよく論じられる。未来派のジャコモ・バルラの《綱に引かれた犬のダイナミズム》は犬の足や尾が何本も描かれていることで有名だ。しかし、この手法はもともと漫画の手法で、確かに動いてはいるけれど、同じ場所でバタバタしているように見える。他にも動きを表わすものに効果線や擬音語擬態語がある。運動する物体の後ろに土ぼこりが舞い上がるのもある。こう言う手法は通常絵画では使われない。絵画の面白さとは別物だからだ。 

絵画の運動を知るために会田誠の《巨大フジ隊員VSキングキドラ》とマチスの《ダンス》を比べて見よう。《巨大フジ隊員》に動きが少ないことは、少し前のブログで大理石像の《ラオコーン像》と比較して書いた(注1)。子供の頃《ラオコーン像》の写真を見て、そのリアルで精緻な仕事に感嘆したが、特別な「芸術的」感動は感じなかった。ヴァティカンで実物を見たときはむしろ失望した。写真をで見ると素晴らしいのに実物を見るとつまらないのは何故か長い間疑問だった。それは平面の写真よりも立体の彫刻の方が知覚が優位なので、動きのない彫刻はよけいに生命がないように見えるからだと知ったのは随分と後になってからだ。同じ静止していても「知覚に基づいた想像」である写真の方が活き活きと見えるものだ。誰にだってロダンの実作を見てがっかりした 経験があるだろう。そんな筈はないと繰り返しロダンを見てもダメで、しまいに自分には美的感覚がないのだと諦めてしまう美術愛好家もいるだろう。

《巨大フジ隊員VSキングギドラ》はセル画として描かれたので、動きは動画のイリュージョンに任せたのだろうか、漫画的手法は使っていない。《巨大フジ隊員VSキングキドラ》を最初に見たとき、背景の町並みが小さかったこともあって、宙に浮いているように見えた。しかし、よく見れば尻もちを突いている。漫画やアニメならもくもくと土ぼこりが舞い上がるところだ。『エヴァンゲリオン』でもしきりに舞いあがっていた。

ラオコーンが大蛇に絡まれて身動きできないように、フジ隊員もキングギドラに噛まれレイプされて身動きができない。彫像と絵画を比較するのは無理があるように思えるが、そうではなく、むしろ動きを比較することで彫像と絵画の違いが明瞭になる。平面的な《ダンス》と比べると《フジ隊員》は三次元的で立体的に正確に描かれているので、かえって動きがないように見える。《ダンス》はダンスを踊っているのだから動きがあって当たり前だというなら、ドガの《踊り子》が静止しているように見えるのを思い出して欲しい。

Youtubeに《Dance》を立体にした動画を見つけたのでアップする。




冒頭のカメラが動いていないショットが一番絵画作品に近く動きも空間の広がりもある。しかし、カメラが動き始めるとダンサーたちはより立体的になるが動きはむしろなくなる。動画と写真と絵画を比べると、知覚、(知覚に基づいた)想像、錯視の三者が絡まり融合して、三つを截然と区別することは難しい。冒頭の静止画とマチスのオリジナルの絵画作品と較べてみよう。





《ダンス》の「立体像の動画」と「冒頭の静止画(写真)」と「マチスの絵画」の三つを比べれば、一番動きがあるのは間違いなく絵画だ。それはマチスの平面的な描写においては、絵画意識(知覚に基づいた想像)の想像作用が動画や写真と較べて強く働くからだ。実写の静止画(写真)は遠近法や陰影があるため、想像より知覚のリアリティが強められる。スーパーリアルの絵画が触ってみたくなるような錯視が生じることはよく知られている。

絵画の《ダンス》は平面的な描写で、肌色はフラットに塗られ、体には陰影はないけれど、輪郭線は太く、カーブは強いので、手足の動きが強調されている。特に注意を引くのは、男のように見える左端の人物で、頭から背中、そして脚へと弓のように反っている。それに答えるように2番目の女性は上半身を前に曲げて、右足を左足の脛に当てている。三番目の人物は右足を広げ、四番目は反対側の左足を前に上げ、五番目は前のめりになって、最初の人物の伸ばした右手を掴もうとしている。五人が輪になって、漫画のコマのように次々と時計回りに動きがつながって行く。五人は同じキャンバスの平面に描かれながら輪の真ん中に空間を作り、五番目の女性が輪を崩すように前に倒れこんで時計回りのモーメントを生み出している。平面的に描かれたほうが三次元的に描かれた人物よりも豊かな空間や動きを表現する可能性があると言える。

以上で「空間と動き」についてはひとまず終わりにする。説明が錯綜しているけれど、ポイントは絵画を見るということは「知覚にもとづいた想像」であることを忘れないようにして、あとは「知覚」と「知覚に基づいた想像」と「自由な想像」と「錯視」を混同しないようにすれば、それほどの混乱は生じないと思う。それから絵画の平面性は「知覚に基づいた想像」が発動するためには重要な契機だということも付け加えておきたい。

PS:これは決して会田誠を貶めるものではない。会田の絵とマチスの絵はもともと違うものなのだから同一には論じられない。北斎の影響という視点から見れば、会田は主題の引用だが、マチスは北斎の線を学んでいる。《ダンス》の脚の線はバレリーナではなく、北斎の職人の脚ではないかと疑っている。男の裸の脚なんて北斎漫画の職人たちの他にどこにも見られない。しかも、マチスはある意味で頂点を極めた《ダンス》の線に満足せずに新しい実験を生涯つづけたのが会田と一番ちがうところであり、そこが北斎の「画狂」につながるのだ。会田誠は『絵バカ』と言ったかと思えば、『天才でごめんなさい』と言い。そして今度は「もう俺に何も期待するな」という。

つづく

注1:《巨人フジ隊員VSキングギドラ》と《ラオコーン像》 http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-860.html





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2014.02.17[Mon] Post 21:57  CO:0  TB:0  漫画とアニメ  Top▲

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