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小林史子の《1000の足とはじまりの果実》は紛れもなく一枚のタブローである。

小林史子のこの作品は産経新聞の『六本木クロッシング2013展 アウト・オブ・ダウト』の美術展評で見た。解像度の悪い印刷の写真だけれど胸がジーンと来た。解説にはインスタレーションとあるが、これは紛れもなく一枚の「タブロー」だ。

表面に凸凹があるので絵画のようにイリュージョンが現れることはない。事物の知覚が優勢だ。古着が隙間を埋めている。様々な色の古着がある。様々な形の布がある。椅子の直線があって、丸められた布の曲線がある。まるで抽象表現主義の絵画のようだ。

そこで逆転が起こる。知覚された絵画平面の向こうに空間が生まれるのではなく、椅子や古着の凸凹や隙間から平面のイリュージョンが生まれる。写真だけれど、少し平面が見える。「首振り立体視」()をすれば奥行きの錯視が現れる。

写真のほうが実物よりも分かりやすいかもしれない。実は我々はこういう平面を知っている。おみやげでいっぱいになったスーツケースを帰国して開けたとき、リサイクルのゴミを固めて運ぶとき、大型プレス機で潰した廃車などの面が、この作品とそっくりな抽象画のような面を作っている。もちろん小林史子の作品のように凸凹や色彩が豊かではないのだから面白さには欠けるけれど。

シュヴィッタースのメルツ絵画や大竹伸朗のジャンクアートにも凸凹の立体的なコラージュによって絵画的なイリュージョンを生み出そうとした作品があるがとても成功しているとは思えない。お皿をキャンヴァスに貼り付けたジュリアン・シュナーベルも、プロセスアートの手法で絵画を解体した小林正人もただ物質の知覚が強化されるばかりで、「知覚に基づいた想像」という絵画の神秘が出現するわけではない。

想像が働かなければ、どんなに絵画に擬態しても、知覚が優位なオブジェになる。シュヴィッタースや大竹伸朗や小林正人と比べるのも大きなお世話だが、小林史子には立体と平面に対する鋭敏な感覚がある。椅子二つ使ったオブジェも自転車を使ったインスタレーションも立体ではあるけれど、写真に撮れば絵画的な平面性に対する感性がすぐれて繊細であることが分かる。

ニョウボは《1000の足とはじまりの果実》の写真を見てポロックみたいだと言った。たしかにエナメルの絵具が盛り上がっているところが知覚を刺激し、線と線に挟まれた空間のイリュージョンが脈動しているところは似ていなくもない。いずれにしろ私はデ・クーニイングの抽象表現主義を思い出したのだから、ニョウボと私には《ファーマリズム》理解にそれ程の差はない。

なぜ、デ・クーニングか。すでにお分かりだと思うが、念のため説明しておく。デ・クーイングの《おんな》についてグリーンバーグが言った「帰する場所なき再現性」の問題である。

私がこの語で意味しているのは、抽象的な目的のために適用されはするが、再現的な目的をも示唆し続けるような、彫塑的かつ描写的な絵画的なるもののことである。(グリーンバーグ『抽象表現主義以降』)

《1000の足とはじまりの果実》の古着や椅子は抽象的な線や色や形の面白さのために使われているが、再現的な役割も担っている。デ・クーニングの《女》は三次元のイリュージョンが再現(represent)を担ったが、小林の《1000の足とはじまりの果実》では三次元の事物がリテラル(直接)に現在(present)しているのである。

小林史子の図像検索をしていたら、驚いたことに下の作品《The Island Over There-Hiroshima》(2009)を見つけた。何故驚いたかというと、もちろん上で述べたシュヴィッタースや大竹伸朗と同じ仲間の立体コラージュだけれど、タブローではなくインスタレーションの作品だからだ。外見は幾何学的抽象もどきの絵画の擬態をしているが、「知覚に基づいた想像」が発動することはない。インスタレーションとは作品の中に知覚する観者が歩いて入れる実在の場所なのだ。《The Island Over There-Hiroshima》はインスタレーションではあるが、壁のような実在の平面に遮られて中に入ることは出来ない。ただ、目で知覚できる隙間や穴が空いているだけだ。

グリーンバーグは「観者が歩いて入っていける自分を想像できる古大家の空間のイリュージョン」と「観者が覗き見ることしか出来ないモダニストの空間のイリュージョン」と区別したが、小林史子は文字通り「観者が歩いて入れるリアルなインスタレーションの空間」と「手で触れることのできるリアルな隙間や凹みや穴ぼこの立体コラージュの空間」を区別する。インスタレーションと立体コラージュの空間は観者の身体的空間と連続した同一の空間である。小林史子は立体コラージュの隙間や穴ぼこを古着で充填して、椅子の硬い表面を柔らかいいろいろな色彩の布で和らげ絵画的(ペインタリー)な表面を生み出している。

《The Island Over There-Hiroshima》と《1000の足とはじまりの果実》の間には無限の距離がある。前者は知覚の支配するオブジェであり、後者は「知覚に基づいた想像」が支配する一枚のタブローなのだ。

小林史子の《1000の足とはじまりの果実》は今年一番の収穫である。何よりも自分の絵画理論を実現してくれたような作家を発見したのだから。







                                     The Island Over There-Hiroshima /2009



       《1000の足とはじまりの果実》(2013年)




スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2013.12.23[Mon] Post 00:20  CO:0  TB:0  小林史子  Top▲

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