大竹伸朗(3)
大竹伸朗インタビューby永江朗(『ユリイカ』11月号)
この大竹のインタービュー記事は、将来、大竹を理解するための貴重な資料になるだろう。しかし、ここでは大竹のことではなく、聞き手の永江朗のことを書く。いかに、美術ジャーナリズムがイイカゲンかの証左になる。 要点だけ書く。 大竹がダ・ヴィンチの画集をスクラップ帳にしたことに関して、永江が「なぜまっさらなスクラップ帳じゃなくて人の画集なんですか?」と訊く。大竹は、コンセプトとかじゃなくて、すでにあるから一層得するじゃん、それがいいなと思っただけだと答えているにもかかわらず、永江は言う。 永江 すごく暴力的な感じがしますよね。ダ・ヴィンチの上に自分のザーメンぶちまけて穢してやるぜ!みたいな。 大竹 穢すなんて気持ちは全くないけどね。ダ・ヴィンチの絵は昔から好きだし、単純にダ・ヴィンチを貼らなくてももうすでにあるというところがいい。* こういった引っ掛けみたいな質問に対して、大竹はいつも忍耐強く、自分の芸術は主張ではないなどと説明している。この発言のすこし前でも、永江に「大竹さんはデュシャンピアンですか?」と訊かれた大竹は、もちろんその手は喰わず、「デュシャンピアンというのがどういう人を指すのかはよくわからないけれど、」と、はやる永江を制したあと、自分の中のデュシャンは、レディメイドやコンセプチャル・アートのデュシャンではなく、彼の十代二十代のころの油絵とレディーメイドの作品がセットになったようなデュシャンだと言って、『大ガラス』に触れながら、永江をふくめた世のデュシャンピンたちをそれとなく皮肉ったあと、
「・・・自分が興味を持ち続けているデュシャンと、いわゆるデュシャンピアンというのは−−−デュシャンピアンは「俺は人とは違う」と誰もが思っていると思うんだけれども(笑)−−−なんか交差しないんだよね。そっちには入りたくないというか。」 と言う。こここまで、はっきりと言っているのに、永江は「デュシャンは近付こうとすればするほど遠ざかって行く」と、それでも懲りずに大竹のスクラップ帳はデュシャンの《グリーンボックス》だといいだす。両方とも移動式個人展覧会のようなものだからというのだが、デュシャンピアン永江の牽強付会としか思えない。 というぐあいに、インタービューというより対談といったほうが適当な会話が、音楽の話になり切り貼りの話になり、そして始めに引用した永江のザーメン発言になるのだ。 それにしても大竹のどこに「暴力的な感じ」があるのだろう。少なくとも今回の『全景』展を見た限りでは、そんな暴力的なものはどこにもなかった。反対に、こぢんまりとした纏まりの危険性さえ感じたぐらいだ。おそらく、永江は絵を見ずに、美術業界のジャルゴンのパズル解きをしているだけなのではないか。インタビューの冒頭で、大竹自身が、デビューしたとき貼られたニュー・ペインティングを拒否しているのだけれど、永江の暴力的とか穢すといったイコノクラスト的な言葉は、憶測だがおそらくこのニュー・ペインティングというレッテルから導いたもので、大竹の作品からではないだろう。 美術評論家たちが大竹を批評できないのは、ニュー・ペインティング以来、大竹に貼り付ける外国輸入のキーワードがないからだ。だから、永江のように古くさいイコノクラストを持ち出したり、誰も分かってないから何を言っても大丈夫だろうと、自分の一知半解を、「デュシャンは近付こうとすればするほど遠去かって行く」と陳腐なレトリックで誤魔化して、デュシャンを持ち出したりするのだ。今回の『大竹伸朗全景』展では、美術ジャーナリズムは大騒ぎだが、前回の大騒ぎのときは、ニュー・ペインティングというなんだかわからないけれど便利な言葉があったけれど、今回は、そんなものはないのだ。〈全身芸術家〉なんていう言葉を使っているが、それこそドメスティックな言葉だ。しっかりしろ美術業界。 断っておくが、わたしは大竹伸朗を理解しているわけではない。ただ、彼はダダではないし、いわんや、図像破壊者であったことは一度もない。そして、これからもないだろうということを漠然と感じているだけだ。もちろん、それを確かめるために、もう一度『全景』展に行くのだが。 TRACKBACK
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