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会田誠のための記号論入門[1]:《文字と絵画》

会田誠のストーカーのようになってきたけれど、決してそうではありません。

初めは「画家のための記号論」を書くつもりだったが、それでは誰も読んでくれないだろうから、いっそのこと画家の代表として会田誠の名前を借りることにした。幸いというか、会田は現在の日本の美術家の中でもっとも文字と絵画の違いに自覚的な絵描きである。

会田には文字を使った主な作品が四つある。《美少女》のパフォーマンス、《桑田》のレタリング、《1+1=2》の抽象画、そして《書道教室》の看板だ。あとはイタズラ書きやポスターや文章などのための文字で、これほど《文字と絵画》の問題を探究した画家は会田の他にはクレーぐらいしかいないことは以前にも書いた。(注1)

都合のいいことに、会田には《美少女の絵》と《美少女の文字》の両方の作品がある。《犬》シリーズの美少女と自慰パフォーマンスの《美少女》だ。絵の方は、中学生のときに大場久美子の水着姿を裸にして自家製ポルノを描いたのが始まりだ。会田の絵画の原点だと言う。上手く描ければ一度ならず二度三度と使えたそうだ。文字の方は「美少女」だけではなく、おそらく「大場久美子」の名前や「美少女」の文字を見ながら自慰を試みたこともあるだろう。「名前」はその人を思い浮かべるとはかぎらないし、「美少女」の文字を見ても意味を志向するだけで、絵のように具体的なイメージを見るわけではない。ただ文字から注意を逸らして自由な想像・連想をするだけだ。絵の美少女も文字の美少女も自慰という会田にとっては究極の判定基準があったわけだから、「文字」と「絵」の違いについては十分に思索を重ねたに違いない。

文字も絵画も記号である。文字はデジタル記号で絵画はアナログ記号だと俗に言う。これは間違いではない。しかし、「絵画の記号論」というと話がおかしくなる。もともと言語学から生まれた記号論を絵画に適用するには無理がある。世にある「絵画の記号論」と称するものはたいていは強引な辻褄合わせなので、絵をちゃんと見る人にはひどく難解なシロモノになる。

必要なのは「記号の現象学」なのだ。普通の人は文字(言葉)が記号であることは理解しても、絵が記号かどうかはなかなか確信が持てない。文字と絵画の現象の仕方が異なるのはだれでも知っている。しかし、いざそれが何か問われると、知っていると思っていたことが実は何も知らないことに気付く。

記号を定義して理論を構築してもかえって迷路に嵌り込む。まず、美少女の絵や文字がどういう風に現象するか見てみよう。《犬》シリーズの美少女五人はそれぞれ個性のある美少女に見える。《月》の美少女は眼窩が凹んで白人とのハーフのように見える。《野分》の少女が一番わたしの好みに合う。風に向かって吠え、向こうを見る白目が美しい。最後の《陰影礼賛》の少女は田舎娘のようで美少女の基準に合わないような気がするが、会田の好みなのかもしれない。

それに対して文字の《美少女》は会田も言っているように概念を示すので、大きい字でも小さい字でも、あるいは上手な字でも下手な字でも概念が変わることはない。もちろん言葉の意味から注意をそらして誰の筆跡かとか、自分が好きな美少女を想像したりすれば違った意味が表れるだろう。そのときは文字を見ているのではなく、文字から意識をそらし、周辺部に意識を向けているのだ。

以上のことは、図像や文字に意識を向けている客観的態度なのだが、上に述べた「注意をそらす」とか、「周辺部に意識を向ける」などは、言わば意識を客観的態度から主観的態度に転換していると言える。これが「現象学的還元」というものだが、あまり深入りすると返って分からなくなる。事は大雑把が一番なのだ。

図像がどう見えているか文字はどう見えているか、絵と文字を比較してみよう。するとすぐに分かることは、図像を見たり、文字を読んだりすることの根底に知覚があるということだ。絵はキャンバス上の絵具を見ているし、文字は紙の上のインクのシミを見ている。基層にある知覚は絵と文字は同じだが、その知覚を超えた意識のあり方(志向性)が図像(絵)と文字(言葉)では異なっている。どう違っているか会田はもちろんよく知っている。ただ、言葉にできるかどうかは判らない。

これまでブログで繰り返し書いてきたように絵を見ることは「知覚に基づいて想像する」ことだ。自由な想像とは異なる「知覚と想像」が融合した不思議な意識が絵を見ることなのだ。

つづく

注1:キュビスムの文字は平面性の問題だ。

2013.12.13[Fri] Post 22:51  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

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