どちらも「癒し系」ということでしょう。必ずしも同じ人が好きになるということではなく、マーケッティングからみると買う人は同じタイプの人たちだということだ。それを奈良美智は「同じ人が好きだと言っている」と受け取れないことはないのを捉えて文句を言っているように思える。
こういう癒し系ポップアートというのはなかなか細部にこだわるので、うっかり同じだなんて言ってはいけないのは「美の商人」のイロハだと思うのだが、奈良もラッセンも自分の取引ルートにのっていないということで油断しのだろう。
イルカよりくじらが好きだとか、動物キャラより少女キャラがいいとか、いろいろ意見の相違があるのが癒し系だ。Tokyo Popでは奈良も村上も意地悪キャラが人気のようだが、もう一人の会田誠は自分のキャラを持っていないこともあって、必ずしも癒し系とは言えない。自分では鬼畜系と言っているけれど、同時に《滝の絵》はラッセンと同じ癒やし系だと公言している。滝は日本人にとって癒やしの風景ということだが、それなら浅田彰が王道だという千住博の滝の絵を持ち出せば良かった。
いずれにしろ、この「癒やし」というのはポップアートのキャラクタばかりではなく、ポスト・モダンの現代美術全般に広がっていることは、藤枝晃雄がロバート・ヒューズを引用して『現代芸術の彼岸』の中で述べている。
治療法としての芸術、それは芸術に投資する成り上がり者、それに群がる画商や美術ブローカー、芸術に憧れる文化人、感性的なものとは無縁な美術評論家、学芸員、美術史家、そして芸術家自身を一時的に癒やすものである。(『現代芸術の彼岸』P7)
森美術館の『会田誠展』に重なって国立近代美術館で『プレイバック・アーティスト・トーク』という重要な現代絵画の展覧会があった。ほとんどの作家がモダニズムを克服しようと活動しているのだが、その中の多くは直接間接に「癒やし」に触れている。マチスの「癒やし」もよく知られているが、彼の癒やしはキャラクタの癒やし、色や形の装飾的な癒やしとは異なる癒やしだということは既に述べたとおりである。(注) ちなみに津上みゆきも抽象の癒し系である。
注:『イタズラ書き』と『自家製ポルノ』(
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