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「イタズラ描き」と「自家製ポルノ」--会田誠の画家としての原点

会田誠は自分の画家の原点は「漫画」だと言っているのだが、本当の絵描きとしての原点は「イタズラ描き」と「自家製ポルノ」と言ったほうが真実に近い。

「自家製ポルノ」は正確に言えば中学生会田誠の「自家用のための自家製ポルノ」なのだが、会田の画家としての基礎を形成している。大場久美子の水着姿の写真を削って裸にしたのが最初で、それで写実の技を磨いたという。 この精神は《あぜ道》や《滝の絵》に生きている。《滝の絵》はエッセイ『公開制作もうイヤだ!』(注1)に詳しいけれど、まさに「自家製自家用ポルノ」のノリで制作されている。

椹木野衣(注3)は会田の児童ポルノ疑惑の例として《犬》シリーズをあげている。しかし、会田はカタログの解説で、《犬》シリーズは「作品の題材を『自分』限定から、様々なレベルにおける『我々』に変換する」と言っている。《犬》シリーズは自家用ポルノではなく、むしろ販売用芸術、あるいはいっそうのことアンチ・ポルノと言ったほうがいいのかもしれない。児童ポルノ禁止法について会田は「空想した者ではなく実行した者の刑を重くしてゆくしか打つ手はないと思う」(注2)と常識的な考えを述べている。

児童ポルノ禁止は児童虐待の問題なのだから、非実在の絵画の性的表現を擁護するのがむしろ美術評論家の努めだろう。それを、椹木野衣はわざわざ「児童ポルノの適用範囲を非実在の図画対象まで拡張」して、会田や森美術館に記者会見をして説明責任を果たせと言うのは怪訝である。まぁ、それはそれで良しとしよう。それより美術評論家としていささか疑問なのは、ポルノの問題を「芸術か猥褻か」の問題にしていることだ。ポルノは芸術的価値とは関係がない。欲望を刺激できるかどうかでポルノの価値は決まる。

もちろん春画にはいろいろな楽しみ方があって良い。江戸時代の春画は売れるか売れないかで価値が決まった。それが『自分』限定から『我々』に変換するということだ。「人々」ではなく「我々」なのは画家自身も含まれているからだ。自家用から販売用への変換だ。そうであれば、デザインの優れた歌麿を好む人もいるだろう。笑いがあるのが好きなひともいる。真っ裸の北斎がいいという人もいる。いや、いや、若衆が良いというのもいる。そもそも女と男では好みが違う。

北斎の《蛸と海女》は女性の白昼夢を描いた女性用の春画とも言えるし、不能になった北斎の妄想ともいえる。会田にはこの北斎の春画とアニメを組み合わせた《巨大フジ隊員VSキングギドラ》という実質的なデビュー作がある。高度な技術には驚嘆するけれど、ポルノグラフィーとは言えない。《ジューサーミキサー》や《犬シリーズ》ならSMとしてエロに感じる人もいるだろうし、あるいはグロとして喜ぶ人や嫌悪する人もいるだろう。しかし《巨大フジ隊員VSキングギドラ》にはエロティックなものもグロテスクなものもない。フジ隊員は尻もちをついているのだが、空中に浮いているようにも見える。目を大きく開き、涙がひとすじ溢れているけれど、無表情である。腹を喰い破られ内蔵が飛び出ている。キングギドラの一つの首がフジ隊員の性器に頭部を突っ込んでいる。血は流れていない。車の事故が起きているが、街には人影はない。時間が停止しているように見える。

ドキュメンタリー・フィルム《駄作の中にだけ俺がいる》で会田が《滝の絵》を描いている。その映像に重ねて会田のナレーションが「絵は人が見ることによって得られるある種の快楽を刺激するサービス業だと思っている」と言う。「ある種の快楽」とはもちろん第一義的に性欲のことだろうが、ここで重要なのは絵描きはサービス業だと言っていることだ。会田は自分のためではなく、お客さんのために絵を描くプロの絵描きだと、「自家用ポルノ」から「販売用展示用ポルノ」へのサービス業宣言だ。横尾忠則は画家宣言をしたが、会田誠は反対にサブカルチャー宣言をしたことになる。

会田には《わたばバルチュスになる》という駄作系の作品がある。バルチュスは名前を売るために猥褻なシチュエーションの美少女を描き、地位を築いてからスイスの山で毎日美少女を呼んで絵を描いたという。会田には《愛ちゃん盆栽》でわかるように隠居願望があるけれど、これは「自家用ポルノ」への回帰願望だ。また、会田はヘンリー・ダーガーにしばしば言及している。ダーガーへの関心は、自分が性犯罪者になったかもしれないという恐れや、児童ポルノ製作者の嫌疑をうけたことも理由だが、それよりも、ヘンリー・ダーガーが「自家製自家用ポルノグラファー」として人生を全うしたことにたいする羨望ではないだろうか。

「自家製自家用」は「イタズラ描き」にもある。と言ってもイタズラ描きは何かの用に供するものではない。それがデタラメな線でも「へのへのもへじ」でも文字でも模様でも、何かを再現(リプレゼンテーション)するためではない。マスターベーションに利用するわけでもないし、人に見せるためでもない。精神分析家がもっともらしく何か言おうと思えば言える。しかし、イタズラがきは何も表現しない。アクションの軌跡でもなく、深層心理の指標でもない。ただのイタズラがきである。誰だって、教科書や机にイタズラがきをしたことがあるだろう。これは一種のヒーリングなのだ。ADHDだったという会田がイタズラがきに夢中になるのは想像にかたくない。

私はここで会田の精神分析をしたいのではない。そうではなく、会田が絵をどう捉えていたか、あるいは画家になることをどう考えていたのかを知りたいだけだ。「イタズラがき」には具象的なものと抽象的なものがある。具象的なイタズラ描きはヘタウマの漫画や駄作系の作品になっている。「駄作の中にだけ俺がいる」というわけで、《濃かれ薄かれみんな生えてんだよなァ・・・・・》の傑作が生まれる。これは《あぜ道》や《滝の絵》のように「失われた時を求めて」ではなく、東京に出てきてからの経験だろう。横断歩道を横に広がって小中高OLと和服姿の女性五人が渡ってくるのをローアングルで描いている。みんな口が曲がって、あー怖い。OLはムダ毛を剃ったあとにちょろちょろと毛が生えていてちょっと笑える「反美少女の世界」である。

抽象的なイタズラ描きは当然抽象画になる。例えば哲学の文庫本のページにイタズラ書きをした《美術と哲学1 判断力批判批判》という作品がある。おそらく『アートで候。』展の「浅田・岡崎批判」がきっかけだろう、抽象画に挑戦するようになった。『美術手帖』の企画で辰野彦坂古谷の三氏に抽象画を教えてもらう座談会を開いた。そのあとは抽象表現主義なのか、あるいはアクションなのかパフォーマンスなのか抽象画のパロディのような絵を描いている。パロディならたけしの機械仕掛の《Monsieur Pollock》のほうが画家の主観性を排除して断然面白い。

会田が抽象画に挑戦している真意は分からない。グリーンバーグを変なオジさんといい、抽象表現主義を嫌っている。しかし、《1+1=2》はデ・クーニングの「女」を文字記号に置き換えたらどうなるかをシミュレーションした作品とも言える。《女》は線一本でも空間のイリュージョンが生まれるが、文字は識別されるだけで空間のイリュージョンは生じない。このイリュージョンがグリーンバーグの「帰する場所なき再現性」(homeless representation)なのだ。この辺りのことは会田のこれからの作品を見ていかなければならない。といっても会田は「モンドリアンのように前進する画業」の画家ではない。「自家製ポルノ」と「イタズラ描き」から始まり、紆余曲折を経てついに抽象画にたどり着いてメデタシめでたしのお伽話は会田にはない。

会田はモダニズムを理解しない。反対に、モダニストはイラストを認めない。両者のあいだには越えられない溝がある。それなら素朴な質問から始めよう。人はなぜ絵を描くのだろう。あるいはまた、人はなぜ絵を見るのだろう。会田誠は言う。「絵は人が見ることによって得られるある種の快楽を刺激するサービス業である」と。会田の発言はポルノにかぎったことではない。画家という職業の根幹にかかわる問題だ。マチスは同じようなことを『画家のノート』(注4)で言っている。有名な言葉だからそこを引用する。

私が夢みるのは心配や気がかりの種のない、均衡と純粋さと静穏の芸術であり、すべての頭脳労働者、たとえば文筆家にとっても、ビジネスマンにとっても、鎮静剤、精神安定剤、つまり、肉体の疲れをいやすよい肘掛椅子に匹敵するなにかであるような芸術である。


「肉体の疲れをいやすこと」と「快楽を刺激すること」とは随分と違うような気がするが、快楽も癒やしも見ることでて得られるサービスだ。理屈で得られるものではない。会田の「イラスト(ポルノ)」は分かりやすい。コンセプチャルなものなら理屈が役立つこともある。それに比べてマチスに理屈は役に立たない。マチスの平面性はキュビスムの平面性より難しい。ドローイングのデフォルメが分かっても、そこに色が加わると分からなくなる。顔にも手にも表情がないけれど表現はある。見続けると、ある日突然マチスを見ることが快感になる。そして翌日はその快感は消えている。そのうちマチスをみることが疲れを癒やしてくれるようになる。

藤枝晃雄は見ることと知ることの倒錯を戒めている。浅田や岡崎は理論を偏愛している。それに対し会田やマチスは絵は見ることによって快楽や癒やしが得られると言っている。しかし、モダンとポスト・モダンは理解しあわない。快楽と癒やしは同じ感覚とは言えないが、《滝の絵》は快楽を刺激もするが、少し離れて見れば「癒やし」の絵でもあるのだ。ルノワールの少女たちは男に見られていることを意識しているけれど、会田の少女たちは男を意識していない。《あぜ道》のお下げの少女は自分の「いやらしさ」に気付いていない清純な少女である。《あぜ道》も《滝の絵》も会田の「失われた時を求めて」なのだ。

それならマチスは同じ見ると言っても何処が違うのか。イラストは何が描かれているのかを見るけれど、モダニズムの絵画はは如何に描かれているかを見る。フォーマリズムだ。モダンとポスト・モダンの争いは複雑怪奇というべきで、ちょっとやそっとでは整理がつかない。会田誠も浅田・岡崎批判をしたのはいいけれど、要領を得ないまま終わってしまった。それでも会田は抽象画に挑戦している。どうなるかしばらく待つしかないだろう。


注1:『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』に所収
注2:『マルクスの奥にエロがあった』(『カリコリせんとや生まれけむ』所収)
注3:ARTiT 連載 椹木野衣 美術と批評 : 絵描きと「贋金つくり」-会田誠「天才でごめんなさい」
注4:『画家のノート』みすず書房

スレッド:絵画・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2013.09.12[Thu] Post 08:09  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

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