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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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市原研太郎の『ゲルハルト・リヒター論』

市原研太郎の『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』の第一章《ゲルハルト・リヒターの過去、未来、そして現在》はリヒターの作品全般を「過去、未来、現在」の視点から論じる試みだ。(注1)

まず、タイトルを見れば絵画の時間構造(注2)について述べているようにも思えるのだが、どうもそうではないらしい。作品図版も見たけれど、言っていることが分からない。いろいろ芸術論や美術史や哲学の知識が詰め込まれているのだが、そのつながりが分かりにくい。これもポストモダンの美術評論というものなのだろう。松井みどり()の「パリ・コレの前口上」風とも浅田彰()の「腰帯文学」風とも違って、一番ポストモダン風鍵語が多い気がする。

と言う訳で、一つポストモダン風レトリックの間違いを指摘しておく。ご存じのようにリヒターにはボケた絵画がある。例としてボケた《Horst and His Dog》の図版が載っている。ふつうはこの絵を見ればボケた写真を模写したか、ボケた写真のように描いた絵だと思うだろう。しかし、写真のボケと絵画のボケは違うと市原研太郎は言う。本当か。ボケ・ブレだろうがボケ・ブレでなかろうが写真と絵画は図像としての差はない。写真の機械的な制作過程は、証拠能力を保証するが、図像としての写真に何の特権も与えない。

市原研太郎の説明を要約すると、ボケた写真の「被写体」(指示対象)はボケていないが、ボケた絵画の「図像主題」はボケているというのだ。無理やり要約するとそうなるけれど、此処にはいくつかのごまかしがある。ボケているのは写真も絵画も「図像客体」だ。しかし、その図像客体に基づいて想像されしている「図像主題」は両方ともボケてはいない。被写体は指示対象であり、図像主題と区別しなければならない。ベーコンの半透明の人物も同じ事が言える。市原研太郎は巧みに被写体という言葉を避けている。

詳しくは『写真はインデックス記号か?』(注2)に譲るとして、もう一度ボケた絵画について確認しておく。絵を理解するには絵を見ることから始めなければならない。モデルから始めるバカはいない。写真も同じことだ。被写体から始めはしない。《Horst and His Dog》をもう一度見てみよう。この絵を見て、ホルスト氏(図像主題)が擦れたようなボケた人物だと思う人は誰もいない。ボケて見えるのは図像客体だ。これはマチスの素描の女が怪物に見えないのと同じことだ。私の絵画論の原点である「モノクロ写真の人物は灰色には見えない」(注3)を思い出して欲しい。図像としては写真と絵画を区別する理由はない。まさにこのことをリヒターは絵画によって示したのだ。

写真はイコン記号でもあり、インデックス記号でもある。前者は絵を見ることであり、図像意識の志向性の問題である。後者は物理的プロセスのことであり、写真が証拠になる根拠だ。ロザリンド・クラウスもそうなのだが、市原研太郎は志向性と物理的プロセスを(たぶん意図的に)混同して、ポストモダンな修辞で読者をケムにまく。

実例を示そうと思ったけれど、あまりの混乱にあきらめて、前後脈絡を無視して「さわり」の部分を抜き書きする。

リヒターは、・・・・・画像を客観的現実にも主観的意識にも帰属させず、その間に見事に宙吊りにするのです。

市原研太郎は意識が「志向性」であることを知らない筈がない。「画像」とは図像の三層構造のどれを示しているのか。かってサルトルがベルグソンのイマージュを物質と意識の混じったものだと批判したが、市原研太郎の「画像」も同じように客観的現実と主観的意識の中間に「宙吊り」になって「浮遊」している。それは間違いだ。正しくは、知覚している図像客体を「中和変容」して、意識は図像主題の想像へと超越しているのだ。

意識は志向性であり、箱のような入れものではない。志向的対象が宙吊りになったり浮遊したすることはない。たぶん、ここでは「画像』というのは図像主題のことだろう。マリリン・モンローの写真と肖像画を比べてみよう。どちらの図像主題も実在した女優のMMを「外部指示」している。図像主題と被写体あるいはモデルは区別しなければならない。勿論モデルあるいは実在する人物を指示しないこともある。図像客体と図像主題の志向的関係は、図像主題と外部指示の志向的関係とはことなるものだ。そして知っている人物の肖像画と架空の人物画では見え方はことなるし、抽象的な写真や抽象画ではなおさら曖昧なものになる。

混乱したかもしれない。誰でも分かることを書いておく。図像意識の志向性がもちろん曖昧で両義的であることは確かだ。例えば、ナンシー関の「似ていない似顔絵」は、誰なのか分かったような分からないような中途半端な感覚の面白さだ。名前を知っている場合と知らない場合。顔を思い出すとき思い出さないとき、長いキャプションを読んでなるほどと思ったとき思わないときなどなど、まさに「宙吊り」「浮遊」の感覚だ、だからといって哲学持ちだしても余計に分からなくなるだけではないか。これは図像客体と図像主題の志向的関係ではなく、図像主題と外部指示の対象との関係なのだ。

「写真」はアーティストや美術評論家にとって麻薬みたいなものだ。一度手を出すとその安易なレトリックの使い回しから抜けられなくなる。ロラン・バルトもロザリンド・クラウスもそうだった。もちろん画家にとっても事情は同じだ。絵の分からない美大生などが写真を利用してオブジェもどきやインスタレーションを作る。仕舞いに写真は「芸術的写真」ではなく、芸術そのものになる。杉本博司の写真が展覧会で絵画と並べて展示され、杉本博司と浅田彰が対談する。それを読んで、また、絵の描けない画家がコンセプチャルな作品を作る。堂々巡りでどこにも出口は見つからない。

そろそろ、絵画に還るときではないか。



注1: たぶん混乱するだろうから、あらかじめ市原研太郎の間違いを指摘しておくと、「図像客体」と「図像主題」を区別していないこと、そのかわり「画像」という「物質と意識」(ベルグソン)の合いの子のような曖昧な言葉を使って議論を混乱させている。一言でいえば「意識の志向性」を理解していない。図像意識は知覚でも想像でもなく、「知覚に基づいた想像」なのだ。


注2: 「写真はインデックス記号か?」()

注3: もちろん衣服をPhotoshopで彩色してやれば、灰色の人物に見える。
2013.06.22[Sat] Post 22:58  CO:0  TB:0  -ゲルハルト・リヒター  Top▲

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