ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

スポンサーサイト のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/843-656b9730
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

ベーコンの奇形とマチスのデフォルメ

マチスのヌードは「怪物」だという批判が当時あった。そうだろうか。ふつうの鑑賞的態度で見れば、そこには怪物ではなく優れたヌードデッサンがあるだけだ。

マチスのヌードは「怪物」には見えない。しかし、ベーコンの人体は「奇形」に見える。何故だろう。ベーコンのデフォルメが「誇張」の域を超えて暴力的破壊的だということもあるだろうが、それだけではない。簡単にいえば、マチスのデフォルメがフォーマリズムであり、ベーコンのデフォルメはリアリズムだということだ。(注1)

はじめから説明しよう。

絵画を見ること(図像意識)は「知覚に基づく想像」である。「自由な想像」ではない。自由な想像は絵から視線を外しても目を閉じても可能だ。絵をボンヤリと見ながら別の絵を想像することも出来る。ところが、絵画における想像はモノとしての絵画を知覚していなければならない。絵から目を離しては絵を見ることはできない(注5) しかし「自由な想像」は、逆になるべく知覚が働かないようにする。壁を見たり目を閉じたり焦点を外したりする。

通常は知覚と想像は両立しない。どちらかが背景に退いている。しかし、絵画では知覚と想像はピッタリと重なって、両者は(図像意識の)志向性によって貫かれている。「連想」のように知覚している対象から想像の対象に意識が移るわけではない。キャンバスの表面に描かれた平面的な図像(客体)は中和され、それがそのまま三次元の図像(主題)として想像の志向的対象になる。

この中和変容を理解するためには絵画記号と文字記号を比べるとよい。文字を読むとき我々は紙の上のインクの染みを知覚している。しかし文字の形をただ見ているわけではない。意味を見ている。文字に注意を向けると文章の意味が分からなくなることがある。文字を読むことは知覚した文字記号を「中和変容」して、文字を超越して意味を志向することだ。文字と意味の結びつきは「恣意的」だが、図像客体と図像主題の結びつきは「類似」による。いわゆるアナログだ。しかし、ともに知覚しているモノを中和変容している点では記号意識と図像意識は共通している。

壁に二本の線が上にいくにほど狭くなるように(ハの字に)描かれている。これは「知覚」だ。次にその二本の線が遠くにのびているように見える。これが「知覚に基づいた想像」だ。知覚しているのはあくまで壁にペンキで描かれた二本の(ハの字の)線だけれど、幅が狭くなる二本の線を遠ざかる平行線として見ている。これは知覚ではない。「知覚に基づいた想像」だ。もう一つは二本の線が壁の上にではなく、壁の奥に実際に伸びているように見える。部屋の空間とイルージョンの空間は繋がっていなければならない。薄暗がりで等身大の写真を見たときによく生じる現象だ。注意しないと壁にぶつかる。これが錯視や錯覚といわれるものだ。二本の線だけだと遠近法は非常に不安定になる。風景を書き加えてやれば安定する。ハの字ではなく平行線でどう見えるか試して欲しい。(『絵画の現象学』を参照)

「イリュージョン」という言葉は誤解をまねきやすい。美術評論ではホッベマの《並木道》の遠くに続く奥行をイリュージョンという。しかしこれはイリュージョンではなく、知覚に基づいた想像なのだ。キャンバス平面に絵の具で描かれた図像(客体)に基づいて奥行きを見ている。同時にそれが平面に描かれた絵であることを我々は知っている。錯視の方の(オプティカル)イリュージョンはオップ・アートのちらつきやハイパーリアルに描かれた林檎が手で触って見たくなるような「知覚モドキ」のことだ。錯視は中和変容の媒介なしで知覚と想像が融合している異常な図像意識だ。絵画を観賞するときは「知覚」と「錯視」と「「自由な想像」と、そして「知覚に基づいた想像」の4つを区別しなければならない。(注2)

マチスが『画家のノート』(みすず書房)の中で自分の素描のデフォメが図像主題の描写ではなく、絵画表現の形式であることを述べている。

人は私のことを《怪物たちを魅了して楽しむ魔法使い》という。私は自分の創造物が魅せられた怪物、もしくは魅惑的な怪物だと思ったことは一度もない。ある人が、あなたは自分が女たちを表現するような具合に彼女たちをみているわけではないでしょう、と言うのにこう答えたことがある、”もし、街なかでそんな風な女たちに出会ったたら、肝をつぶして逃げ出すでしょう”何はともあれ、私は女を創造するのではない、《私は絵を作るのである》。


「女を創造する」というのはピグマリオンのように現実の女を生み出すということだ。彫刻はもともと三次元だが、マチスの素描の女たちは二次元の女だ。それが三次元に見える。特にグロテスクでもエロティックでもない。しかし素描どおりの体形をした女が現実にいたら怪物に見えるだろう。マチスの女が怪物に見えないのは「想像」で見ているからだ。もちろん本来存在しない輪郭線だけの素描だからこそ想像が余計に強く働く。上の引用に続いて、マチスは素描の「白」について述べている。

たとえ、線影付けとか陰影とか半濃淡などがなくても、私はヴァルールの働きとか調子の抑揚を拒否しているわけではない。私は多少厚みのある線によって、またことに線が白い紙の上に区切る面によって抑揚をつけるのである。私は白い紙のさまざまな部分を、それに手を加えるのではなく、その隣接関係によって変化させるわけである。こうしたことはレンブラントやターナー、そして一般的には彩色の巧みな人の素描のなかにはっきり見てとることができる。


デッサンに線影や陰影や濃淡をつければより立体的に見えるだろうが、そのかわり線が生み出すヴァルールの働きや調子の抑揚を失う。色はなおさら線の想像力を弱める。もともと存在しない事物の輪郭線とくらべても、事物の表面の色はリアルであり、それだけ想像が抑圧されることになる。切り絵の《青いヌード》は輪郭線も陰影も濃淡もなく、切り抜かれた青い紙の縁(フチ)が女の形になっているだけの青いヌードだ。もちろん青は青に見える。青は青い影絵であり、ピンクの肌にも青い肌にも見えない。それだけ一層素描の白のように青の想像力が働く。

マチスのデフォルメされた線の想像力は通常言われる二次元のものが三次元に見えるイリュージョンとは異なる。通常言われる図像主題のイリュージョンはリアルな描写であればあるほど、と言うことは色や線や陰影が本物らしく見えれば見えるほど、平面のものは立体的に見え、絵画的イリュージョンは強まるけれど、マチス的な線の想像力は弱まる。予備校で習う石膏デッサンがつまらないのはこのためだ。(注3)

色は線の効果を弱める。だからマチスは平塗りにする。描写の色ではなく、表現の色だ。《Harmony in Red》の赤は描写の赤ではない。表現の赤だ。だからと言って画家の主観的感情を表わすわけではない。線と同じように色も「関係」が大切だ。色も線も創造的でしかありえない。おそらくマチスにおいては線がもっとも豊かなのは色のない素描だし、色がもっとも豊かなのは輪郭線がない切り絵だろう。台紙が白の《ブルー・ヌード》はなおいっそうニュアンスが豊かだ。

マチスは線と色彩の関係について生涯探求を続けた。さまざまな工夫をした。素描の線は色彩が加わることで変貌した。《ピンク・ヌード》の直線、《棕櫚のあるヌード》の黒い太い線、輪郭線のない《ブルー・ヌード》など、変化したのは線ばかりではない。色もまた描写の色から表現の色になり、マチスの絵はますます平面的になっていった。

ここまで言えば、ベーコンのデフォルメがなぜ奇形に見えるのか説明の必要はないだろう。ベーコンの人体や顔をどんなに激しく変形しても現実に存在可能なのだ。例えば、《三幅対ー人体の三習作》(綱渡り)の人物は乳房や尻や手足がバラバラだけれども、それは発生途中に異常が生じた雌雄同体の奇形児がそのまま大人になったようにもみえる。直線は二次元的であり、曲線は三次元的だ。

これには対しては、図像に黒い円形の穴があいていたり、足の先が消えていたり、黒い輪郭線で描かれた膝が透明だったり、直方体やサークルが人物を囲んでいたりして、ベーコンは決してリアルではないという反論があるだろう。たしかに、これらは人体のリアルな描写ではない。ベーコンの絵画は自然の対象を破綻なく再現するようなリアリズムではない。例えばベーコンが好んで使う白の絵具は人体や顔の描写や化粧であったり、あるいは、イリュージョン空間や絵画表面など主題とは違うところに塗られている。これらはフォーマリズムというより表現主義的なものだが、だからと言って人体のリアリティーを希薄にするものではない。

同じことは《人体における習作》(カタログNo2)にも言える。灰色の人物が半透明のカーテンの間から右半身を見せている。物理的な絵具の層、すなわち知覚の層としては、灰色の体の表面からはみ出している白い絵具が際立っている。カーテンも半透明の布地とキャンバスにこすり伸ばされた灰色の絵具のどちらとも取れる曖昧さがある。だからと言って、『非物質的であるはずの霊的存在が物質として具現化する「エクトプラズム」という心霊現象』(カタログの解説から)とは何の関係もない。裸の男は確かに図像客体としては半透明に見える。白い肌はキャンバスの表面に塗った絵具に見える。しかし、図像主題として見れば、ということは「知覚に基づいた想像」で見れば、さらに言うならば、普通の絵画鑑賞の態度で見ればということだが、そこには血と肉とペニスを備えた裸の男が描かれている。絵画とはそういうものなのだ。

ピカソのキュビスムの肖像画と比較すれば、フォーマリズムのデフォルメとリアリズムのデフォルメの違いが容易に理解できる。国立新美術館の『ピカソ展』にあったドラ・マールとマリー=テレーズの肖像画はいわゆる正面と横顔を組み合わせたキュビスムの顔だ。こんな顔の女がいたらそれこそ「怪物」だろう。しかし怪物には見えない。二人の顔に見えなくはないが、無理にそうすると返って錯視が生じる(ようだ)。 二つの顔は異なった視点から見ている一人の女の顔ではなく、ひとつの視点から見ている一人の女の顔なのだ。(注4) 

ピカソのキュビスムは絵画表現の形式であって、存在可能な対象の描写ではない。だから我々はピカソの顔を奇形とは受け取らない。ピカソの線は二次元的で、ベーコンの線は三次元的だ。ピカソの線にもマチスと同じように平面性がある。平面だからこそ知覚に基づく想像が働き、線や色が描写ではなく形式の豊かさを獲得する。平面性こそ絵画の秘密なのだ。

藤枝晃雄は『マチスの空間』(『現代芸術の展開』美術出版)中でマチスとデ・クーニングを比較している。マチスは「心地良い安楽椅子」のような絵を描きたいといい、デ・クーニングは芸術家が座る椅子に心地よい椅子はないと言う。デ・クーニングの方が現代的に見える。時代も後だ。しかし、実際の作品に関してはマチスとデ・クーニングの位置は逆転する。マチスの方が現代的で難解あり、デ・クーニングは「馴染みのイリュージョニズムにいっそう近く、絵画として心地良いもの」であると藤枝晃雄は言う。

同じことがマチスとベーコンのデフォルメについても言えるのではないか。ベーコンのデフォルメが理解しやすいのはそれが旧套なリアリズムだからだ。見たことがないから天使は描かないとクールベは言ったけれど、見たことがあるものを描くのがリアリズムではない。空想したものや極端にデフォルメしたものでも現実に存在可能なように描いてあればリアリズムといえる。天使だって怪物だって描写がリアルならリアリズムだ。そういう意味ではシュールレアリスムもまたリアリズムの一種なのだ。

さらにベーコンを理解しやすくしているのは彼の表現主義的な側面だ。ベーコン自身は自分は表現主義ではなく、リアリズムだといっているが、表現主義はリアリズムとは必ずしも矛盾しない。捩れ歪み叫ぶ顔は勿論だが、立方体のような枠構造や半透明のカーテンや上からシャワーのように降り注ぐ縞模様、それに白い絵具の物質性や人物の部分的消失、さらに絵画表面にあけた黒い穴など絵画の形式を顕在化するような絵画言語がたくさん使われている。これらは形式上の効果だけではなく、感情的な表現の役割を持っていることはひと目見れば理解できる。そういう意味ではベーコンは表現主義と言えるわけだ。

それに比べ、マチスにはベーコンにあるものが一つもない。あるいはマチスにあるものはベーコンには一つもないと言っても良い。下にペーストした《Still Life with a Sleeping Woman》を見て欲しい。付け加えることは何のない。






注1:ここでは「リアリズムのデフォルメ」を対象の描写のためのデフォルメを意味するのに対して、「フォーマリズムのデフォルメ」は線や色の形式のためのデフォルメを意味する。

注2:中和変容は完全になものではない。知覚(絵具と図像客体)と想像(図像主題)は弁証的緊張の関係にある。一枚のタブロウを観賞しているとき、知覚に基づく想像が優位だが、他の知覚、錯視、想像がゼロというわけではない。

注3:『ルオーとマチス展』(汐留ミュージアム2008年)で二人の修業時代の陰影濃淡を付けた男性ヌードのデッサンを見たが、マチスは技術ではルオーに劣るように見え、とても後年の素描を予感させるものはない。

注4: 《ドラ・マールの肖像》(カタログN105)の正面の顔と横顔を別々の女ととして見ようとすると、横顔は正面の顔より引っ込んでいるような錯視が生じる。このことはかなり不安定だ。一人の顔の中に二人の顔がちらついて見えるような気もする。

注5:図像意識は知覚意識と想像意識の二重の意識なのだ。これが可能なのは「中和変容」という意識作用による。モノクロ写真の少年を見ているとき、知覚しているのは灰色の肌だが、想像しているのはピンクの肌色である。ベーコンのデフォルメは「灰色の肌」であり、マチスのデフォルメは「ピンクの肌」だ。
2013.04.24[Wed] Post 22:49  CO:0  TB:0  フランシス・ベーコン  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

ベーコンの奇形とマチスのデフォルメ のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/843-656b9730
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。