ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

スポンサーサイト のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/84-830b98c0
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Alberto Giacometti

ジャコメッティ展(川村記念美術館)★★★★★

 ジャコメッティ展を再度見るために川村美術館に行った。
 この前のジャコメッティ展の展評で書いたように、神奈川近代美術館葉山分館の展示には不満だったので、ちょっと八つ当たりをして、学芸員の悪口をいったり、こんな展覧会を見るならブリジストン美術館の《ディエゴの胸像》を一つ見たほうがよっぽどマシだと、憎まれ口を叩いていた。
 川村美術館にもう一度行って見ると約束していたのだが、どうも、気乗りがしない。それでも、ジャコメッティがつまらないのか、葉山の展示が悪いのか、おそらく台座は同じものを使うだろうが、照明は葉山とは変わるだろうし、ひょっとしたら、白い背景ばかりではなく、もう少しちがう背景で見られるかも知れないと、川村美術館にいった。
*
 結論からいうと、行ってよかったのである。葉山とはまったく別の展覧会になっていた。
 なにより光が違っている。展示室に入ってすぐ右に展示してあった《女》は、葉山のときはそれほど目をひかなかったが、今回はとても美しく見えた。葉山の照明はカタログの写真のように陰影がはっきり判るような照明だったのではないか。それに比べ、川村の照明はもっと柔らかく、表面には、ただ微かな陰があるだけで、凹凸は彫刻ではなく、絵画のように見える。頭を動かせば、彫刻の凹凸が浮かび出てくるのだが、そのうち、ゲシュタルトは反転を起こし、凹凸が凸凹に逆転するような気配をおびてくる云々
 《女》(Ⅰ-10)は、彫刻と絵画を融合させたような作品で、しかも、トリプル・イメージになっている不思議な作品だ。全体の矩形の板は、もちろんキャンバスを暗示しており、それが湾曲して人間の胴体に見える。その湾曲した面に、女がダブル・イメージで描かれている。三角形の頭が載った女の上半身が、女の頭部になっており、足の部分が女の頸になっている。
 線も両義的だ。女の顔の輪郭線は、浅浮き彫りの溝になっている。シュテファン・バルケンホールの浅浮き彫りの溝は、絵の具の描線と調和して、立体のイルージョンを強めているが、ジャコメッティの溝は、色彩がないダブル・イメージのためか、平面と立体の両義的な線になっている。
 このことで、ジャコメッティが、随分早くから、絵画における立体と、彫刻における平面の問題を探求してきたか分かるというものだが、これは、具象彫刻である《作家の父》で試みて失敗したものを、より抽象的な塑像で試みたものだろう。
 などなど、女房は喜んで、あっち見たりこっち見たりしている。どうも葉山の展示と異なるのは、照明だけではなく、台座が葉山より低くなっているような気がする。停止線の役目をしている大きな台も、気のせいか、薄くなっている。躓いた跡もないようだ。ニョウボは、たしかに低くしてあると言うのだが、わたにしは確信がなかった。
 しかし、《頭蓋を欠いた頭部》を見て、確信した。明らかに台座が低くなっている。葉山ではこの塑像は、高い台座の上にあって、見上げなければならなかったのをよく憶えていたからだ。どうしても、目の高さで見たかったのに、それが出来なくて、葉山では腹を立てたのだ。この頭部は、頭蓋の一部が欠けているのはもちろん、顔が他の胸像と違って、押しつぶされて平たくなっているのではなく、顔の左右が切り取られたように欠けている。これは、当然、現代人の孤独とか、人間存在の根拠の無さを表現しているわけではないだろう。
 わたしは、ジャコメッティが「見えるものを見えるとおりに表した」ものを見たいと、像の周りをグルグルまわったが、一瞬、イルージョン(本当はBildだ)が現れたように思ったが、それは思い違いで、結局、葉山では、何もみえなかった。
 ところが、どうだろう。葉山で見えなかったものが、川村では見えたのである。頭蓋がちゃんとある男の頭に見えたのである。わたしは、ゆっくりと《頭蓋を欠いた頭部》の周りをまわり、斜め右(向かって左)から見るのが一番頭蓋が盛り上がって見えるのをたしかめた。正常な男の頭である。私は満足した。
 台座は葉山のときより、明らかに低くなっている。わたしは、どうしてもそれを確認したくなって、ニョウボに、監視員に訊いてもらった。監視員が知っているわけがないとも思ったのだが、まえに、シーグラム壁画の照明のことを質問して、ちゃんと答えてもらったことがあるので、無駄ではないだろうと思ったのだ。
 女房が監視員に聞くと、監視員は知らないからと、わざわざ担当者に聞きに行ってくれた。戻って来て言うには、係の者が直接説明に来てくれるというのだ。困ったなあ。「ART TOUCH」の主だと知られたらこまると思いながら、学芸員をまった。
 現れた学芸員は、私たちの質問に丁寧に答えてくれた。訊かないことまで、説明してくれた。書けないこともあるが、展示に関しての学芸員の説明の要点は以下の通り。

0.台座は下を切って低くした。
1.展示方法に関しては、ジャコメッティ財団と文書で契約する。
2.停止線は台座から70センチ以上離すという条項がある。
3.実際の展示に関しても、財団側が主導権をもっていた。
4.それでも、神奈川兵庫川村と巡回しながら微調整を続けてきた。
5.アメリカで開催されたジャコメッティ展の展示風景の写真が数葉あったので、それを参考にもした。
6.他の美術館との共同企画なのだが、川村美術館の展示空間が狭いと言うこともあって、そのため展示方法を調整しなければならなかったということが、変更の一番の理由である。

 6番目は、私たちが、あまりに葉山を貶して、川村を誉めるので、気を遣ったのだろう。確かに照明は、設備の関係もあるし、狭い展示場では間接照明が中心にならざるをえないだろう。それに、ヤナイハラ関係の資料なども、無理矢理関係づけることもなく、最後の方にこじんまりと、まとめてあったのも、ジャコメッティの鑑賞に邪魔にならず、便利であった。
 もちろん、葉山の方が良かった展示もたくさんあっる。たとえば、《キュビスム的コンポジション-男》は、葉山のほうがずっと良かったし、何よりも、三つの《作家の父》が一緒に展示してあったのは、秀逸であった。これらの作品で、われわれは、ヤナイハラとジャコメッティを、文学や哲学ではなく、単純に「顎の問題」によって結びつけることが出来たのだ。
 葉山は、ジャコメッティの文学的表現主義的な面を強調した展示になっており、必ずしも川村より劣っているわけではないのだが、ジャコメッティ芸術の根源である彫刻のイリュージョニズムの問題を背景に追いやるという重大な欠陥があった。
 もちろん、ヤナイハラとの交流という展覧会の開催趣旨もあったのだろうが、それは、あくまでも、ジャコメッティの塑像の造形的面白さを理解した後の話ではないか。おそらく、学芸員キューレーターには、そんなことは当たり前のことだから、文学的哲学的鑑賞のために造形的な意味を犠牲にしたとも考えられる。しかし、この二つは矛盾するわけではないし、二つの面が分かるように展示することも出来たのではないだろうか。
 もちろん、現実には、二つの展示は二者択一的なものになっており、一方を犠牲にすることによってしか、他方が生きてこないということもあるだろう。とくに、葉山の展示は、文学的な意味を際立たせるために、邪魔になる造形的面白さを、確信犯的に、隠したのではないか。
 というわけで、私が葉山の展評で書いた「ジャコメッティを理解していない者たちのリスト」は、不当なものであり、取り下げたいと思います。ただし、ジャコメッティを文学的に解釈するのは間違いだという考えを取り消すつもりはない。造形的理解なしの文学的鑑賞は、感傷的ものにすぎない。《頭蓋を欠いた頭部》が人間存在の無根拠を表すと言われれば、なるほど、そうかもしれない。しかし、象徴的比喩的方法を使えば、どんな解釈だって可能だ。ジャコメッティは比喩は使わない。彼の「見ること」は比喩でも象徴でもない。あくまで、そこにあるものをこの目で知覚することなのだ。人間の頭部を象(かたど)りしても、それは粘土のかたまりであり、フッサールの言う図像客体(Bildobjekt)にしかならない。頭蓋を削ることで、はじめて人間の頭部が密度をもって(Bildsujet)見えてくるのだ。

 さて、展示について丁寧に説明してくれた川村美術館の学芸員は、いったい、私たちの素性を知っていたのかどうかは判らない。わざわざ、展示場までご足労いただけたのは、自分が苦労したことに気付いてくれた観者がいたことが嬉しかったのではないだろうか。関係者以外で、葉山と川村の両方を見た観客は、そんなに多くはないだろうし、そのなかで、台座の高さが変わったことに気付いた者はなお少ないだろう。さらに、わざわざ、そのことで質問した人間は、おそらく我々だけだろう。
 でも、葉山の展評には、関係者と思われる無名氏からコメントが二通入って(二通目は削除した)、素人がいい加減なことをいうなと罵られたぐらいだから、おそらく、川村美術館の学芸員氏も、ブログを読んでいるとおもわれる。読んでいれば、おそらく、私たちのことは感づいていたにちがいない。
 学芸員氏の名前を尋ねようともおもったのだが、やぶ蛇になってもと、やめておいた。説明してくれた方は、おそらく、わたしがリストで挙げた、川村美術館学芸員の鈴木尊志さんだったのではないかと思うが、わからない。いずれにしろ、このブログを読めば、わたしの素性は判ってしまうのだから、名乗って、あやまっておけばよかったと悔やまれる。
 それにしても、神奈川近代美術館と川村美術館の対応は随分と違っている。これも公立と私立の美術館の違いなのだろう。国立の美術館は、独立法人化されてサービス向上に努めているようだが、公立はどうなっているのだろう。

 それから、《鼻》が右にずれて吊されていたが、あれは意図的なのだろうか。運搬するときははずして、展示するときに、一点で吊すので、右に捩れてしまったのではないか。もし、意図的だとしたら、理由は何だろうか。

 川村美術館のあと、ニョウボは、面白かったけれど、やっぱり、どこか物足りないところがある。帰りにブリジストン美術館に寄って、《ディエゴの胸像》を見たいと言い出した。やれやれ! 次回はそのことについて。
にほんブログ村 美術ブログへ
2006.11.12[Sun] Post 23:29  CO:0  TB:0  *ジャコメッティ  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

Alberto Giacometti  のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/84-830b98c0
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。