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セザンヌの脈動:(国立新美術館『セザンヌ - パリとプロヴァンス』)

これだけ多くのセザンヌをまとめて見るのははじめてだった。会場は平日ということもあってか、美大生らしき若者かわりに、画家風の高齢の人たいが多かったような気がする。銀髪のオカッパの女性も目についた。

セザンヌを理解することが絵画を理解することだった時代があった。いまでも、正統的な美大のカリキュラムはセザンヌから始まるのではないか。しかし他方では、会田誠のようにレンブラントは理解できるけれどセザンヌは分からないという画家もいる。なぜ、そんなにいろいろな言葉がついてくるのか分からない、セザンヌは絵が下手ではないのかと会田は言う。たしかにセザンヌは最後までデッサンに苦労したと言われている。今回の展覧会に展示されていた初期作品の《四季》は、これでよく画家を志したものだと驚かされる。

セザンヌについてまわる言葉と言えば、誰でも思い出すのが「脈動」だ。カタログの評論『セザンヌからマティスへ』(長屋光枝)にも、《サント=ヴィクトワール山》(1902頃)についてゴットフリート・ベームを引用して、「水彩を思わせる大振りの瑞々しいタッチによって、震えるように脈動する画面は、セザンヌが到達した比類のない成果を示している。」と書いている。

この脈動や震えはセザンヌの筆触分割にかかわっている。一つは印象派の震えるような光の影響であり、もう一つはキュビスムに繋がるもので、筆触分割のモザイクが絵の物理的表面とその奥に描かれたイリュージョンとの間に現れる脈動(vibration)のことだ。そのことをグリーバーグが『セザンヌ』の中で書いている。

それによって無限の振動が、絵の文字通りの塗られた表面と、その背後に形成された「内容」との間に生じるが、ここにこそセザンヌ流の「革命」の本質があったのである。


グリーンバーグは同じ脈動を分析的キュビスムの切子面とイリュージョンの間に見いだし、さらにはポロックがこのキュビスムの脈動を受け継いでいるという。「『アメリカ型』絵画」から引用。

ポロックは交錯した滴りやはねによって、、強調された表面----これはアルミニウム塗料のハイライトによって、さらにはっきりと示される----と、不確定だがどういうわけか明確に浅い奥行のイリュージョンとの間に振動を生み出したが、その浅い奥行のイリュージョンは、三十余年前にピカソとブラックが分析的キュビスムの切子面状の面によって到達したものを私に思い起こさせる。


脈動は、セザンヌの筆触分割やキュビスムの矩形が、具体的な対象に見えたり、バラバラの断片の重なりに見えたりすることだが、グリーンバーグの本来の意味での脈動はキャンバスの平面性とイリュージョンの間に生じる弁証的緊張関係であり、必ずしもvibration(振動)ということではない。脈動というのは、その中でも、キャンバスの「物理的平面」と「描かれた平面」との間ばかりか、さらに「描かれた空間や事物のイリュージョン」との間に現れる強い交替運動のことを脈動と言う(らしい)。

これは、モダニズム絵画の平面性の問題であり、古典名画は三次元的な事物のイリュージョンによって絵画の物理的表面を隠したが、モダニズムの絵画はむしろ平面性を絵画の本質として宣言した。キャンバスの平面性と三次元のイリュージョンの関係は、さまざまな様態で現れる。その現れ方から見れば、絵画は「知覚に基づいた想像」であることは、遠近法などに絡めて、バラバラではあるけれど、24回の『美術評論とは何か』で論じた。

ホッベマの《並木道》は奥行のイリュージョンが絵画の平面の知覚を抑圧しているけれど、近づいてよく見れば絵具の塗られた表面が知覚できる。同じようにクールベの《ルー川の洞窟》も黒い色面の知覚に基づいて洞窟の暗闇を想像している。物理的な黒い表面を知覚し、その知覚に基づいて、洞窟の暗闇を想像しているわけだが、われわれは比較的自由に知覚と想像のどちらにも注意を向ける事ができるので、脈動といった現象は生じない。

それなら、セザンヌの《サント=ヴィクトワール山》はどうだろう。遠景中景近景と奥行はあるけれど、ホッベマの線遠近法とはちがって、連続的に空間が繋がって、遠くへと縮小しているわけではない。分割された筆触が絵画表面に迫り上がって来るように見える。それが脈動なのかどうかは私にははっきりとは分からないが、空間が透視図法のように息苦しくなく、開放感に満ちている。

サント=ビクトワール山の稜線にそって近景の木の枝が重ならずに伸びているのが、若い頃はわざとらしく思えたけれど、今はそんなこともなく、たぶんセザンヌは、枝が山肌に重なれば、そこに「重なりの遠近感」が生まれるのが嫌だったのだろう。たしかによく見れば、サント=ビクトワールの山肌は枝とともに絵画表面まで迫ってくるように見える。ここにも絵画表面とイリュージョンの弁証法的緊張が現れていると言えるだろう。

絵画の平面性はさまざまの形で現れる。次回、それをもう一度整理してみよう。












2012.07.13[Fri] Post 01:09  CO:0  TB:0  -セザンヌ  Top▲

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