絵を見ることは「知覚に基づいた想像」であることはこれまでも繰り返し述べた。古大家の作品では、知覚は中和変容されて、観者はもっぱら図像主題を見ている。マネなどのモダニズム絵画は物理的表面の知覚を顕在化した。図像主題のない抽象画であっても、ゲルハルト・リヒターの《アブストラクト・ペインティング》のように、知覚に基づいた想像によって空間のイリュージョンが生まれる。
知覚されるのは物体である。想像されるのはイメージである。ただ、図像意識の想像は知覚に基づいたイメージであり、自由な想像のイメージではない。
これは知覚が優勢か、想像が優勢かの問題である。しかし、実際の作品鑑賞では、さらに錯視も加わって、三者を明確に区別することは難しい。斉藤規矩夫の作品では、この三つが微妙に戯れている繊細な作品だし、野田裕示の作品は、磨き上げた漆塗りの工芸品のような知覚優位の作品だ。
ところが、知覚と想像が分裂した絵画もある。曖昧な表現だけれど、絵画の現象学では重要なことなので、簡単にまとめておく。
1:【図像意識における知覚と想像】 知覚に基づいた想像であり、中和変容によって知覚が想像を基礎づけている。知覚された線や色や図形を知覚しながら、それに基づいて図像主題や、(抽象画の場合は)空間のイリュージョンを見ている(想像している)。
2:【知覚と自由な想像あるいは想起】 例えば、風景を眺めながら、別のことを想像していることがある。また、絵画の図像主題を見ながら、連想した別のイメージを想像する場合は「知覚に基づいた想像」と「自由な想像」が重なっていることになる。これは文学者の美術評論でよく見られる手法だ。
3:【知覚と図像意識の分離併存】 これが一番よく分かるのが、ゲルハルト・リヒターの《Overpainted Photographs》だ。写真図像の上に絵具をスクイーズすることで、絵具の物質の層と写真の遠近法的空間とが分離共存している。絵具の層に抽象画として空間のイリュージョンが現れることももちろんある。
ポロックの《
ポーリングのある構成Ⅱ》は知覚と想像が分離している。ポーリングの技法を使い始めたころの作品で、出来上がった抽象画にポーリングしている。近からず遠からず、適当な位置から見ると、黒いエナメルの線が知覚され、その下の抽象画が後退して、ポーリングした線と抽象画の間に透明な空間が生まれている。もちろん頭を動かせば、運動視差が見え、透明な空間の奥行きは深くなる。他方、《インディアンレッドの地と壁画》では、さまざまな色や太さのポーリングの線が重ねられていて、知覚と想像は分離されていないように思える。
斉藤規矩夫の作品は絵画表面の物質性(知覚)とイリュージョン(想像)が絵画表面で渾然一体となって和音を響かせている。ただ繊細ではあるけれど、どこか物足りなさは残る。
ネット・サーフィンをしていたら赤塚祐二の作品を見つけた。知覚と想像の分離を巧みに利用した面白い作品である。
赤塚祐二 《
another mountain5》
手前から奥に線遠近法で描かれた道があり、遠くに山が見える。その風景画の上にグリッドが白い線で描かれている。グリッドの中央の線が道のセンターラインになっている。そこは風景の空間の内部とつながっているけれど、絵画上部のグリッドの縦横の線は、風景の空間とは分離した浅い空間に描かれている。キャンバス表面に重なって見える線もあり、それは当然知覚された絵画表面の物質性を強調することになる。成功しているか失敗しているかはともかく、グリッドは風景画の空間と絵画表面の物理的平面をつなげる働きをしていることになる。
斉藤規矩夫のグリッドと赤塚祐二のグリッドを見て、どちらが優れているか比べて見て欲しい。
さて、ポロックの完成されたポード絵画では、知覚と想像はどうなっているのだろう。分離しているだろうか。それとも渾然一体となっているだろうか。答えはたぶん《インディアンレッドの地と壁画》にあるだろう。