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斉藤規矩夫とゲルハルト・リヒターの空間-「ポロック展」番外②

野田裕示の絵画が立体的であれば、知覚が優位であるのはもちろんだが、それが平面的であっても、工芸的に加工されていれば、桑山忠明や斉藤義重などのように、知覚が優位になる。絵画を見ることは「知覚に基づいた想像」なのだが、知覚と想像のどちらが優位かは相対的なもので、通常の絵画では、クルーべの《ルー川の洞窟》で見たように、想像にも知覚にも原則として注意を向けることが出来る。古典大家の絵画では、想像の図像主題が画面を支配しており、野田裕示の抽象画では知覚の対象である物質性が優位だといえる。

それに対して、斉藤規矩夫の作品《Indian Beans》は、知覚と想像と錯視が渾然一体となっている。一体という表現が適当かどうか分からないけれど、たぶん、空間を統一するための図像主題が欠如しているからこそ、逆説的に知覚と想像と錯視が微妙な戯れを生んでいるといえる。といっても空間がバラバラになっているわけではない。遠近法の線の代わりに、グリッドが空間の枠や奥行きの基準面になっているようにも見える。線が消えかかっている箇所もあるし、格子の中にローマ字が描かれており、その文字も薄かったり、断片だったり、掠れていたり、輪郭線だけだったり、絵の具が垂れて格子からはみ出したりして、擦ったような汚したような輪郭線のぼやけた薄い青みがかった色が、文字の上や下に描かれている。だからと言って、決して焦点の定まらないぼやけた絵ではなく、浅いけれど、確かな空間のイリュージョンが現れている。曖昧さと緊密さが併存した不思議な作品だ。(Jasper Johnsのペインタリーなアルファベットや数字の作品と比べて見れば、その空間の違いは一目瞭然である。また、『会田誠の記号論』①~⑤を参照のこと)

《Indian Beans》は「Vision's」に展観されていた作品ではなく、オークションサイトの「Artnet」から拝借したものだ。会場には、グリッドやローマ字を使った作品とは別の技法を組み合わせたような作品もあった。たとえば、パンフレットに載っている《ロ・ロ・パス》と《二つの月》は、おそらくジェルを混ぜた絵の具をムラがあるように塗りつけて、乾く前に棒で線を引いている。塗り残したところが矩形や楔型の白地として残る。その中に線や図形を描いたり、絵の具を線状に垂らしたりしている。縁が滲んでいるのは、生のキャンバスなのか、あるいは綿布なのかもしれない。技法に関しては確実ではないけれど、ジェル、ひっかき線、ムラ、ステイニング、滲み、ポーリング、地と図の逆転、生のキャンバスなどが、近い距離から見れば、たしかにアクションの物質的痕跡として知覚できるのだが、その知覚に混在しながら、想像と錯視の空間があらわれてくる。地の部分が塗られ、残った部分が図になるということでは、ポロック展で見た《Totem Lesson 2》のマスキング的技法を思い出すが、《Totem Lesson 2》ほどは平面的には見えない。ついでに言っておくと、この《Totem Lesson 2》はグリーンバーグが「どんな強い言葉でもほめてもほめ足りない」と言った作品だ。

斉藤規矩夫の絵画空間を理解するにはゲルハルト・リヒターの《アブストラクト・ペインティング》と比較するのが手っ取り早い。リヒターの空間は古い遠近法的手法を使った奥行きであり、斉藤規矩夫の空間と比べると、むしろ分かりやすい空間のイリュージョンだ。私には面白くないが、ただ、リヒターには、技法を純化することによる絵画についての絵画という「自己言及性」があって、ポロックとは違った意味でリヒターを理解するのは難しいところがある。

リヒターの《アブストラクト・ペインティング》は、まったくホッベマの《並木道》の空間と同じ伝統的空間であり、「知覚に基づいた想像」の空間だ。もちろん《並木道》のような一点透視図法の空間ではないのだから、リヒターの空間は捩れているとか、四次元だとか言う評論家もいるだろうが、そんなことよりも、想像空間が支配する因習的な絵画だということが重要なのだ。それに対して、斉藤規矩夫の作品は、知覚と想像のどちらか一方が優位ということはなく、両者が弁証法的緊張の関係にある。


それでは、ポロックの《インディアンレッドの地の壁画》はどうだろう。ポードされたエナメル絵具は盛り上がっていて、まず、何よりも、適当な距離をとれば、物質的な表面の知覚が優位に現れる。ところが愛知県立美術館でみた《インディアンレッドの地の壁画》はあまりにイリュージョンが強すぎて、絵画的想像力が働かず、結局はポード絵画を理解することができなかった。藤枝晃雄は『現代美術の不安』の中で、ポロックのポード絵画の焦点について以下のように述べている。

「ポロックにおける緊張は、焦点のあるようなないような、遠視と近視の状態の間におけるそれである。」

「ポロックの絵画は、近視と遠視の間に立って焦点を求め、縮小したり拡張したりする。」

「画面に近づけば、それは不規則な網目でしかないし、遠ざかれば壁になってしまうといわれるのはそのためである。」



この文の意味を正確に理解することは私にはできない。ただそれが、「知覚に基づいた想像」という絵画の根本的な問題に関係があることは間違いないだろう。まずは、斉藤規矩夫とゲルハルト・リヒターの空間を比較することから始めるのがポロック理解の近道なのではないか。もちろんリヒターの空間が伝統的な遠近法の空間であることは言わずもがなのことである。





             斉藤規矩夫 : 《Indian Beans》


               斉藤規矩夫 : 《二つの月》























2012.02.26[Sun] Post 14:43  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

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