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⑬『ポロック展』:抽象画の見方と見え方(その3) 〈絵画の記号論〉

【記号学と記号論】 絵画の記号論を目論むとき、あらかじめ、絵画の記号作用を理解しておかなければならない。ところが大抵の絵画の記号論は、絵画とは別の記号現象の理論を外側から絵画に適用する。例えば記号学はソシュールの言語学を基にしており、意味論ではなく、言語記号の構造を研究対象とする統語論だ。言語の構造は弁別的差異のシステムであり、差異そのものに意味作用があるわけではない。意味は恣意的なもので学習等によって表記と一体となる。
 「がっこう」と「かっこう」は濁音と静音の差異が弁別的なのだが、その差異が意味作用として働くわけではない。また、「かっこう」が郭公の鳴き声に似ているけれど、この類似性も意味作用ではない。「かっこう」が郭公を意味するのは決まりごとであって、似ているからではない。語源的には類似性が働いていたとしても、言語記号の意味作用は恣意的なものだ。

【構造主義】 ソシュールの言語学は聴覚映像の弁別的差異に基づいたもので、それを視覚映像の類似に基づいた絵画記号に適用することには無理がある。言語学をより一般的な記号の学にすることで、さまざまな文化現象に適用しようというのが構造主義である。その一つが「絵画の記号論」だ。たとえば、音韻構造の二項対立を絵画の「補色」や「水平と垂直」の対比に適用しようとする論者もいるが、形相である音韻と質料である色彩を比較してもアナロジーの言葉遊びにしかならない。

【汎記号主義】 もう一つパースの記号論がある。パースの記号論は、ソシュールのような言語表現の構造の理論ではなく、記号表現と記号内容の関係の理論で、記号を広く捉え、「自分とは別のものを表すもの」すべてを記号と考える。代用(stand for)はもちろん、連想、自然の変化、原因結果、数式、象徴、表現などなど、世界は記号で出来上がっているという汎記号主義だ。

【記号と象徴】 たとえば象徴作用を例に取ってみよう。ここに百合の花の絵がある。知覚されている平面的な1センチの百合は記号表現(図像客体)であり、それに基づいて想像された10数センチの百合の花は記号内容(図像主題)である。この「知覚に基づいた想像」が本来の絵画記号の意味作用である。しかし、宗教画ではこの百合は純潔を表す。これもパースの記号論によれば記号作用であり、百合は純潔の記号ということになる。
 しかし、純潔を象徴しているのは、知覚された図像客体の百合ではなく、想像された図像主題の百合なのだから、象徴作用とは、「知覚に基づく想像」という絵画本来の記号作用ではなく、もっと広い意味作用である。純潔を象徴するのは、絵画の百合だけではなく、「百合」という言葉も実物の百合も同じように純潔を象徴する。

 図像客体の百合(色と形/知覚)→(知覚に基づいた想像作用)→図像主題の百合(イリュージョン/意味)→(象徴作用)→純潔


【図像学】 象徴作用は記号作用に比べて非常にゆるい意味作用である。百合が純潔の象徴であるのは、歴史的社会的な約定だけではなく、百合が純白であるという自然的な側面も影響を与えているだろう。時代や場所によっても変わってくるし、個人に取っての象徴性(精神分析)だってある。
 絵画の象徴(シンボル)を解説してくれるのが図像学だ。絵画を読むためには絵画言語を知らなければならない。パースを拡大解釈すれば、何らかの関係がある二つのものは、一方がもう一方の記号になる。二つのレモンがあれば、一つのレモンはもう一つのレモンの記号になる。レモンは黄色の記号だし、黄色はレモンの記号にもなる。
 
【象徴から表現へ】 象徴は図像主題のある具象画だけではなく、抽象画にも認められる。垂直の線が崇高の、ブルーの色が宇宙の神秘の象徴となる。しかし、象徴に特有の約定性が欠けている。それで作家が自分の意図を解説する。解説すれば、それは作家の表現になる。線は内面の表現から身体運動の軌跡になる。線が運動ならば時間と空間の世界が広がる。忘れていたけれど、共感覚もあったし音楽もあった。或る者が夢は無意識の記号だといえば、いや自動速記こそが無意識の記号だと別の者がいう。と言う具合で、何が何やらさっぱり要領を得ない。

【自己言及性】 抽象画は静物や風景の外部指示を持たないので、自己言及的といわれる。イリュージョンのない絵画はそこに知覚されてある物理的絵画だ。記号は自分自身以外のものを与える(represent)けれど、事物は自分自身を与える(present)。言語において自分自身を与えているものは言語表現であり、言語表現の構造の理論、すなわち統語論は自己言及的ということになる。同じことは絵画についてもいえる。絵画において知覚されているものは物理的絵画だけれど、その知覚された図像客体の構造、すなわち還元され、最後に残った絵画の本質はキャンバスの平面性(flatness)と形態(shape)だ。これは絵画記号の自己言及的な構造あるいは本質であり、絵画の新しい意味になる。これがマイケル・フリードのいう「抽象性」ではないか。

*【マイケル・フリード】 知覚された事物が自己自身を与える(present)のが「リテラルネス」で、その事物の自己言及的な構造・意味が「抽象性」じゃないかと思うが、これは改めて考える。

【空間】 以上、行き当たりばったりに絵画の意味作用を連ねてきた。とても整理して述べることはできないが、絵画の本来の記号性は「知覚に基づいた想像」であることを忘れないようにすれば、いたずらに混乱することはないだろう。絵画平面の色や図形の知覚に基づいて奥行きの空間を想像する。空間は具象的な空間とは限らない。抽象画にも抽象的な空間のイリュージョンはある。注意しなければならないのは、このイリュージョンは錯視ではなく、想像だということだ。もちろん、この想像は自由な想像ではなく、知覚に基づいた想像だ。

【シニフィアンとシニフィエ】 言語表記(シニフィアン)と言語内容(シニフィエ)は、紙の裏表のように一体だと言われる。しかし、絵画におけるシニフィアン(図像客体)とシニフィエ(図像主題)は言葉以上に密着しており、決して引きはがすことはできない。言葉は弁別的差異が保たれていれば、現実の記号表現の変異の許容範囲は広いけれど、類似による絵画記号は、記号表現がわずかでも違えば、それはそのまま記号内容の違いになる。

【知覚と身体と空間】 絵画を見ることは、知覚に基づいた想像であり、想像されるのは空間の「ピクトリアル・イリュージョン」だ。その想像空間と観者が立っている知覚空間は、絵画の物理的表面で切断されている。しかし、知覚された物質的絵画は平たい矩形の立体として観者と同じ空間に存在する。知覚するということは、事物と観者が同一の連続した空間に所属すると言うことだ。観者は立体作品の周りをぐるりと回れる。いろいろ異なった角度から見ることができる。だから彫刻はイリュージョンを持ちぬくい。

【平面とイリュージョン】 ジャッドがキャンバスの平面からイリュージョンを排除できないから立体を作ったと言った。たしかにグリーバーグは何も描かれていない白いキャンバスでも壁に掛ければ絵画になると言った。それならステラはどうだろう。グリーンバーグは、絵画が絵画であるのはその平面性にあると言ったにもかかわらず、ステラを評価しないのは矛盾していると批判された。しかし、グリーンバーグは絵画を平たい立体にしろと言ってはいない。グリーンバーグはステラのブラック・ペインティングはつまらないと言っている。わたしもつまらないと思う。それは知覚された事物だからだ。平面といえどもその表面を知覚することはできる。黒いストライプ模様は、何も描かれていない生のキャンバスより表面を把捉(知覚)しやすい。わたしは川村美術館でステラのコレクションを見るたびに看板屋の物置に迷い込んだような気がする。
 平面はイリュージョンを生みやすい。しかし、平面そのものは知覚されている事物なのだ。


訳分からなくなったところで、結論めいたことをともかく言っておくと、具象画であろうが抽象画であろうが、絵画の記号性は、【知覚に基づいた想像】だと言うことだ。これはグリーンバーグの絵画の平面性の考えとまったく同じである。ところが、どういうわけか、たぶんマイケル・フリードの責任だと思うが、絵画を想像ではなく知覚の側面から見ていこうという流れが生まれた。これは、グリーンバーグがフォーマリストだとの誤解から生じているのではないか。色や線なら知覚できるからだ。ともかく「知覚」が次回からのキーワードになる。分からないと言って、ここで読むのを止めたら損ですよ。これでも、ずいぶんとわかりやすく書こうとしているです。



参照:『絵画論を超えて』(尾崎信一郎著)を読む(2)(『絵画の現象学』)http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-725.html
2012.01.22[Sun] Post 01:43  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

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