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⑪『ポロック展』:抽象画の見方と見え方(その1)

『絵画の現象学』(http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-707.html)では、図像意識の志向的対象をフッサールに従っって、物理的像(Das physische Bild)→像客体(Das Bildobjekt)→像主題(Das Bildsujet)の三層に分けた。

物理的像と像客体は知覚の対象で、像主題は像客体の知覚に基づいた想像の対象だ。像というのは具象的対象で、三次元の事物である。これは再現的なイリュージョンと言われるものだ。抽象画には自然的対象がないので、そういう意味では図像主題を見る想像力が働かないと思われる。ところが、抽象画にも彫刻的なイリュージョンはないが、視覚的な空間のイリュージョンはある。この言葉はグリーンバーグの言葉なのだが、他に触覚的とか再現的とかトロンプ・ルイユとか、いろいろな表現をしていて分かりにくい。わたしは、知覚と錯視と想像の三分類で分析をつづける。

【知覚】 白髪一雄の絵画は知覚されている。絵具の塊が擦りつけられていて、キャンバスの表面は平面ではなく立体だ。立体だということは両眼視差や運動視差、それに輻輳角や水晶体の調節など三次元の事物を認識する知覚の機能が働くから、イリュージョンが生じにくい。もちろん知覚だけではなく、錯視も想像も働いてはいるけれど、知覚が優勢だということだ。知覚が優勢なオブジェとしての絵画は他にもある。ステラの立体絵画はもちろん、平面的なブラック・ペインティングも知覚が優勢だ。小林正人の《Light Painting》や岡崎乾二郎の《ゼロサムネイル》も知覚が優勢なオブジェとしての絵画である。

【錯視】 一番よく知られている錯視は、オプ・アートだが、これはチラつきがあるので観察しにくい。分かりやすいのは「親指が二本の手」である。親指が二本v字型に付いていると現実の手と違うので奇妙に見える。そのためだろう一本の親指が前後に素早く動くように見える。「二本の親指」と「前後に動く一本の親指」が交替に現れる。前者は知覚で後者は錯視である。それに対して、漫画の技法だけれど、例えばバットが早く動いていることを現すために運動途中のバットの残像を書く技法がある。しかし、二本の親指の手のようには、バットの運動の錯視は見えない。知覚しているのは二本のバットとその間の数本のバットの残像だ。かすれた円弧も書き加えられている。この図像の知覚に基づいてバットが素早く振られているのを想像するのだ。バットが回転する錯視が見えるわけではない。錯視と想像と知覚は入り組んでいるけれど、現象学的還元をすれば、比較的容易に識別できる。

【(知覚に基づいた)想像】 図像主題(ピクトリアル・イリュージョン)は、自由な想像ではなく、知覚に基づた想像である。従って、知覚と想像が同時に働いている。知覚は中和化され、その物理的対象の存在定立は括弧に入れられている。クールベの《ルー川の洞窟》は、黒いキャンバス表面は知覚されているが、黒いキャンバス地の表面がそこに実在するという判断は停止され、その知覚に基づいて洞窟の暗闇の空間を想像する。もっと分かりやすい例を挙げれば、フッサールのモノクロ写真の例だ。モノクロの肖像写真では、知覚しているのは灰色の肌の人物だ。しかし、知覚しているのは灰色だけれど、想像しているのはピンクの肌の人物だ。実際にピンク色の錯覚が生じているわけではなく、知覚しているのはあくまで灰色で、その灰色の明度に相応したピンク色を想像しているだけなのだ。いつでも、灰色の知覚を賦活することが出来る。

【錯視と想像の区別】 二つを区別するのは比較的容易だ。錯視は「異常な」知覚なので、「正常な」知覚とは同時にあらわれない。それに対して図像主題の想像は、知覚と想像が重なって同時に作用している。例えば、円図形に適当な濃淡をつけると、陰影が付いた凹凸の錯視が見える。凹凸の錯視が見えているときは、濃淡をつけた円図形の知覚は現れない。平面図形の正常な知覚が歪んで立体的な凹凸の錯視になっているからだ。反対に濃淡をつけた円の平面図形を知覚しているときは、凹凸のイリュージョンは見えない。これに対して陰影の代わりに、円にサッカーボールの模様を書いた場合は、円は球に見えるけれど、これは錯視ではなく図像主題の想像だ。サッカーボールの模様を描いた円図形の知覚に基づいて、サッカーボールの球を想像している。円図形の知覚と球体の想像は中和変容を媒介にして同時に作用している。どちらにも注意を向けることが出来る。
 以上は、今までの述べてきたことの繰り返しだ。ここからは、抽象画に話を進める。

【具象画と抽象画】 図像主題のある絵画が具象画で、無い絵画が抽象画だ。図像主題は具象的な自然的対象で、ケンタウロスなどの架空の存在も含む。しかし、抽象画にもイリュージョンは在る。再現的な図像主題ではない抽象的な三次元の事物のイリュージョンだ。前回見たゲルハルト・リヒターの《Abstraktes Bild》にもイリュージョンがある。三次元の棒のような抽象的物体もあるけれど、主として平面的な幾何学的図形や不定形の擦ったような跡のある色帯色面の組み合わせによる奥行き空間だ。

【抽象画の図像主題】 この抽象画の空間のイリュージョンは図像主題ではない。それなら想像されたものではなく、錯視なのだろうか。確かにフッサールの「図像の三層構造」では、図像主題は具象的な対象だった。しかし、ゲルハルト・リヒターの絵をもう一度見てみよう。空間は明らかに錯視ではない。この奥行き空間のイリュージョンの手前にちゃんと絵画表面の知覚がある。抽象画でも図像意識が働いているようだ。図像意識は知覚意識に基づいた想像意識である。具象的対象が無くても、絵画表面の線や図形や色を知覚できる。そして、この物理的表面の知覚に基づいて空間を想像している。抽象画においても、絵画表面に描かれた線や色や形を知覚することができるし、その線や形に基づいて奥行きの空間を想像することもできる。従って主題のない抽象画でも「知覚に基づく想像力」が働いており、知覚された絵画表面と想像された空間の間に弁証法的緊張が生まれる可能性があるということになる。

【事物と空間】 具象画の図像主題は三次元の事物であり、三次元の事物があれば、かならずそれを容れる空間が生まれる。ところが抽象画では、三次元の立体が描かれていない場合がある。幾何学的抽象画は二次元の図形だけのものもある。さらに二次元の図形さえないオールオーバーの絵画さえあるが、そんな絵にも奥行きのイリュージョンはある。だた、具象画と抽象画の違いもある。具象画に描かれた事物には大きさがあるし、それを容れる空間にも大きさがある点が違う点だ。それに比べ抽象画の事物や空間には大きさがない。大きさがなければ、大きさのある身体は、その空間に歩いて入ることを想像できない。ただ目でなぞるだけの空間である。

【平面性と空間】 グリーンバーグは三次元の事物のイリュージョンよりも、それを容れる三次元空間のイリュージョンをモダニズムの平面性の視点から重視した。わたしは、「絵画の現象学」を出発点として、このブログを「図像に帰れ」というスローガンで始めた。そして、二つの問を問うた。ひとつは、「なぜ、ピカソとマチスはほとんど抽象画に至りながら、最後まで具象画にとどまったか?」、もうひとつは、「写真はどうしてつまらないのか?」の二つである。

なかなかポロックまで到達しないが、もういちど「絵画の見方」ではなく、「絵画の見え方」について言い忘れたことを次回述べておく。

つづく



 



2012.01.05[Thu] Post 21:13  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

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