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⑩『ポロック展』:抽象画の空間 《想像の空間と錯視の空間》

図像主題は「知覚に基づいた想像」であり、主題は具象的対象だ。想像の主題は、錯視のイリュージョンとは違って安定的に見える。この安定的に見えるということは重要なことで、錯視では知覚とイリュージョンが争っており、どちらか片方しか現出することができないので、チラついて見えることが多い。それにくらべ、図像主題では、図像客体の知覚が中和変容されているので、想像と知覚が争うことはない。いつでも、どちらにも、注意を向けることが出来る。

ところが、図像の知覚と想像の間には、錯視とちがった緊張関係がある。これがグリーンバーグが言う「平面性」と「三次元空間のイリュージョン」の「弁証法的緊張」だ。もちろん平面性とは知覚された物理的絵画のことであり、三次元空間空間のイリュージョンとは知覚された物理的絵画に基づいて想像された空間のことだ。これは、言うまでもないことだが、クールベの《ルー川の洞窟》の黒く塗られたキャンバスの平面と洞窟の暗闇の弁証法的対立なのだ。弁証法的緊張には、たとえばホッベマの《並木道》のようにだらし無く「和解」した空間もあるし、われわれを恍惚とさせるようなマチスの緊張した平面性と奥行の弁証法もある。

さて、われわれはここでモダニズムの根本的な問に出会ったわけだが、まずはポロックの《インディアンレッドの地と壁画》がどのように見えるかと言うことから始めよう。《インディアンレッドの地と壁画》は抽象画だから、図像主題はない。ポロックのポード絵画には、人物や生物らしきものが見える作品もあるけれど、《インディアンレッドの地と壁画》はそういう再現性はない。そういう意味では、さしあったって、「知覚に基づいた想像」は作用していないといえる。

確かに再現性のイリュージョン(図像主題)はないけれど、錯視のイリュージョンはある。少し離れた位置から見ると、絡まった糸クズのように盛り上がったイリュージョンが見える。これは陰影による凸のイリュージョンと見え方が類似している。手で触って本当に出っ張っているのか確かめてみたくなるような錯視だ。これは平面図形の円に付けた濃淡が、陰影という具体的な現象に見えたということだ。これは、濃淡が陰影に見えたということで、図像主題のように「知覚に基づいた想像」ではないけれど、いわば「知覚に基づいた錯視」であり、濃淡の知覚に基づいて陰影という錯視が生じているとも言える。そこには陰影という一種の抽象的具象性が働いていると考えられる。ただし、この場合は知覚の代わりに錯視が現れているのであって、想像の場合のように、中和変容された知覚が存続しつづけているわけではない。
とするならば、《インディアンレッドの地と壁画》の表面が糸くずのように盛り上がって見えるのは、ポード絵画の絡まった網目模様の知覚が中和変容されて、具象的な対象(図像主題)の想像を生むのではなく、陰影の凸のよう錯視を生む準具象性をもっているのではないか。

《インディアンレッドの地と壁画》に近づくと、錯視は消えて、キャンバス表面の知覚が現れる。ポードされたエナメルが盛り上がっているので、なおさらのこと物質的な絵画表面の知覚が強まる。愛知県立美術館圧倒的なイリュージョンのために、あまりよく絵画を見る(知覚)ことが出来なかったので、代わりにカタログの写真を見ている。絵画の平面にポードされた線や網目シミが奥行きのイリュージョンを生んでいる。それを目で見て気づいたものを並べてみる。

 まず、直線よりも曲線が三次元の立体や奥行きのイリュージョンを生む。なだらかな曲線より急な曲線のほうが遠くに見える。これは大小の遠近法で、太い線より細い線が遠くに見える。また、肌理の遠近法ではちっさな染みは奥に見える。また、一番奥行きのイリュージョンを生み出しているのは重ね合わせの遠近法で、この作品は黒が一番最後にポードされているようだ。しかし、仔細に見れば、微妙に重ねわせには変化があるようにも見える。白は黒より先にポードされており、カーブは小さく、太さは黒より細いものが多く、針金や糸のように細く短い線もある。また、線ではなく、染みや飛沫や滲みのような黄橙青が隠し味のように点在しているけれど、その同じ色が同じ深さの平面を作っている。

われわれは曲線や網目の空間の奥の暗色の赤の奥行きを覗き見る。黒い線のカーブに沿って視線は滑っていく。そして白が遠く近く揺れ動いている。そして黄とオレンジと青が、絵画の平面性と想像の奥行きを媒介し、つなぎとめている。この空間のイリュージョンは錯視ではない。絵画平面が依然そこに知覚され続けているのだから、この奥行きは錯視ではなく確かに確かに知覚に基づいた想像なのだが、その図像主題は具象的なものではなく、抽象的な空間の想像なのだ。

抽象画にも奥行きや立体のイリュージョンがある。しかも、錯視ではなく、知覚に基づいた想像の空間だ。この空間は、観者が歩いて入る自分を想像できる空間ではなく、目で見るだけの空間だ。ということはその空間は具象的な大きさのない抽象的な空間だ。例えばゲルハルト・リヒターの具体的な作品を見てみよう。




ゲルハルト・リヒターの抽象画には色帯を重ね合わせて奥行きのイリュージョンを生み出している作品が数多くある。スクイーズの技法なのか、絵具が擦れて向こう側が見えている色面色帯がある。その他ポロックにはない、陰影や明暗らしきものもあるし、何より赤い色帯が右から左の奥へ線遠近法で伸びている。この空間は明らかに錯視のイリュージョンではなく、絵画的なイリュージョン、すなわちキャンバス表面の線と色帯と色面の知覚に基づいて想像された空間だ。

この空間が抽象的な空間のためか、古典大家の作品ほどは絵画空間は安定してはいない。頭を左右に揺らすと、強い運動視差の錯視が現れ、空間のイリュージョンも想像から錯視に変容し、実作ではないので、断言はできないが、錯視に特徴的な質感が現出する。そもそも、運動視差は三次元の奥行き知覚でしか生じない。二次元の平面上で重なっている二つの図形の間に遠近の差はないにもかかわらず、想像している奥行きを、あたかも知覚している奥行きの如くに、運動視差が生じている。それ故、首を揺らすことで運動視差が見える空間は、想像の空間ではなく、錯視の空間といえる。

一つ気づいたことは、真ん中にある赤いくさび形の色帯が、線遠近法的に右の手前から左の奥へ伸びているように見えるが、頭を揺らすと、それが緑と黄の背景の平面に重なって、そのかわりにごちゃごちゃ重なった部分が浮き上がってくる。緑と黄の背景と赤い楔形はキャンバスの縁で切れているので、背景の奥行きがちょうどキャンバスの平面と同じ高さに重なるので、ごちゃごちゃした部分がキャンバス平面から浮いているように見えると思われる。

以上のゲルハルト・リヒターの《抽象画》について述べた空間のイリュージョンと同じ現象がポロックの《インディアンレッドの地と壁画》のポード絵画にも起きていると思われる。赤い地の背景は黒いフレームで囲まれており、キャンバスの縁に近い所はポーリングの密度は薄く、赤い地の背景は黒いフレームで区切られたキャンバス平面と同じ高さなので、赤い背景より手前にある白や黒の線は、リヒターの《抽象画》と同じように、絵画平面から浮き上がって見えたのだ。

リヒターの色帯色面の抽象画とポロックの線の抽象画はもちろん同じ見え方はしない。簡単に印象を述べておくならば、リヒターの絵画言語のほうが通俗的だけれど、その使い方は優れている。ポロックの絵画言語は独創的だけれど、偶然性が染み込んでいるぶん見ることに難しさがある。それでも、リヒターの容易さよりもポロックの難しさに今のところ魅力を感じる。

つづく











2012.01.01[Sun] Post 00:59  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

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