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⑦『ポロック展』:クールベの黒とロスコの黒(その3)

もう一度、絵画における「知覚」とその「知覚に基づいた想像」の違いを、モノクロ写真の色で確認しておく。モノクロ写真の人物の灰色の肌をピンクの肌として見ている。しかし、知覚している印画紙にプリントされた人物の肌は灰色だ。ところがPhotoshopで着ているものをカラーにして、肌はそのまま灰色にしておくと、肌はピンクではなく灰色に見える。灰色が明度ではなく色彩に見えたわけだ。人間の肌は人種よって違うけれど、モノクロ写真では、灰色の明度や容貌から肌はピンクだと想像するけれど、衣服がカラーだと、灰色の人間に見え、そんな色の人間は経験に反するので異様に感じる。

クールベの《ルー川の洞窟》の黒にも同じことが言える。キャンバスの表面の黒い色を知覚している。その黒の知覚に基づいて我々は洞窟の暗闇を見ている。その暗闇は「人がその中へと歩いて入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョン」(グリーンバーグ)である。この場合のイリュージョンは、図像の三層構造から言えば、図像主題(Bildsujet)のことであり、主題といっても、モチーフのことではなく、具体的な目に見える自然対象のことだ。通常言われる「絵が描いてある」と言う時の絵(picture)で、立体視でみえる錯視のイリュージョンとは異なる。

ロスコの「黒」を見てみよう。抽象画なので、図像主題はない。何か自然対象を再現(represent)しているわけではないので、絵画的イリュージョンはない。また、ポロックのような錯視的イリュージョンもない。絵画を見るときの意識は、「知覚」と「錯視的知覚」と「知覚に基づいた想像」の三つだ。ロスコの「黒」を見ることが、錯視的知覚でも知覚に基づいた想像でもないとしたら、残るは知覚ということになる。

それなら、ひとまず、ロスコの黒は知覚されていることになる。ところが、抽象画にもイリュージョンはある。例えば、幾何学的抽象画には具象的対象はないけれど、イリュージョンはある。このイリュージョンは、錯視的イリュージョンでも想像的(絵画的)イリュージョンでもない。『美術評論とは何か[16]』で使った下の図を見てみよう。





左の二つは図像で、室内と二階建ての家の安定したピクトリアル・イリュージョンが見える。右の二つは具象的な対象を消して図形にしたものだが、いろいろなイリュージョンが見える。真ん中の線が凸に見えたり、凹に見えたり、あるいは平面的な六角図形に見えるし、直方体にもみえる。いろいろに見えるけれど、オプ・アートのようなチラつきではないし、触って確かめたくなるような凹凸感もない。それならこの凹凸立体はなんだろう。図像の場合は、左の二階建ての家は、常に凸ダシ、室内のコーナーは常に凹である。図像主題の室内や家はそういうものだからだ。ところが、右の図形には図像主題がないので、決まった形には見えない。凹・凸・平面、いろいろに見えるのは、たとえば、「地と図」の交替現象と似たゲシュタルト心理学的な現象だ。錯視とは違って知覚しているのは平面上の図形であることを我々は知っている。

ロスコの「ブラック・ペインティング」には、ハードエッジな幾何学的図形はない。しかし、かすかな空間のイリュージョンがあるような気がする。ロスコに特徴的な矩形が暗色をかこんでいる。後退色と前進色の対比なのかもしれない。絵画平面から暗色は沈み、明色は浮いているようにも見える。しかし、明暗差が少ないので、表面を知覚するのが難しい。黒の中に微かに明るい部分があるけれど、眺めていると明暗が溶け合っていく。あるいは逆に明暗対比が強くなる。塗りムラがあるけれど、表面の絵肌を捉えることが難しい。

クールベの黒は暗闇であり、ロスコの黒は光なのだ。クールベの黒く塗られたキャンバスの表面はハッキリと知覚できる。この知覚を基として洞窟の暗闇を見るのだ。それに対してロスコの黒い表面は焦点が合いにくい。川村美術館の《シーグラム壁画》は、黒ではないけれど、以前は照明が落とされていたこともあって、もやっとして絵画の表面がなかなか知覚できなかった。老眼が進んだせいもあるだろう。しかし、『マーク・ロスコ 瞑想する絵画展』(川村美術館2009年)の《シーグラム壁画》は、展示室が常設展示の「ロスコ・ルーム」よりもやや明るく、もやっとする感覚は減少していた。それでも、相変わらず、絵画表面にキチッと焦点が合わない感覚は残った。

その感覚はなにか。たぶんそれは、全体に暗色であり、明度差が少ない。暗いものは三次元の知覚でも距離が分かりにくい。黒のなかに青や緑が仄かに見え、それが色ではなく、光に見える。発光体は表面が見えにくい。また、色彩心理学では色を表面色、面色、空間色などに分けるけれど、ロスコの色彩は表面色でも空間色でもなく、むしろ面色に近い色彩なのではないか。ウィキペディアの面色(film color)の定義(David Katz)によると、「定位性や表面のテクスチャをはっきり知覚することができない見え方。色としての属性以外を感じ取ることができない。例としてよくあげられるものに、青空がある。」という。青空はどうかとおもうけれど、表面色ではないというところが、奥行きのイリュージョンを生んでいるとも言える。

この表面に焦点があわない感覚というのは、立体(オブジェ)にもある。青山真也は洗剤の容器やドラえもんやサッカーボールの表面を紙ヤスリで削って、模様をなくしてしまう。表面はマットな単色になり、リアルなボリューム感がなくなりイリュージョン化する。この感覚を利用して絵画と彫刻を融合したのはシュテファン・バルケンホールだ。等身大より少し大きいか、少し小さい荒削りの人物像に人物の絵を描いて(彩色して)、絵画の3次元イリュージョンと彫刻の3次元リアリティの相乗効果を利用している。

一体何を論じているのか分からなくなっているかもしれない。しかし、それはハッキリとしている。ポロックを理解することだ。そのために、クールベの具象画《ルー川の洞窟》の黒とロスコの抽象画の黒を比較していた。《ルー川の洞窟》の黒は、暗闇の黒だった。空間のイリュージョンがある。それに対して、ロスコのブラック・ペインティングにはイリュージョンらしきものが見えるけれど、そのイリュージョンは想像でも錯視でもない。残るのは知覚なのだが、そうは言っても、想像も錯視も知覚を基にしている。反対に、純粋な知覚というのも存在せず、知覚には想像も錯視も含まれている。それは、知覚が網膜に映った二次元の像から3次元の知覚世界を構成していることからも想像できる。

さて、我々は、クールベの黒とロスコの黒の比較した。そして、クールベの黒は洞窟の暗闇のイリュージョンであり、ロスコの黒は、具象的な空間のイリュージョンではなかった。それは抽象画だから当然である。ところがロスコの抽象画にも想像や錯視とは違ったイリュージョンがある。それをポロックの絵画と比較してみようというのが、次回の我々の課題である。

二人は、同じように「抽象表現主義」の画家である。さいわいポロックの《インディアンレッドの地の壁画》とロスコの《シーグラム壁画》、二人の壁画を見ている。もちろん二人の芸術を比較するのではない。壁画を見て、どういうふうに彼らの絵画が見えるのか、知覚と錯視と想像の働きを比較してみようというささやかな試みである。








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2011.12.18[Sun] Post 20:54  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

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