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⑥『ポロック展』:クールベの黒とロスコの黒(その2)

クールベの《ルー川の洞窟》の黒は暗闇の黒だ。全体が見える位置に立つと、余計に洞窟は暗く見える。近づけば、洞窟は真っ暗ではなく、壁や天井の岩肌がかすかに見える。しかし、外は明るい、離れてみれば、洞窟の奥は真っ暗だ。

ここで我々は知覚と想像を分けることが出来る。われわれは黒く塗られたキャンバス表面を知覚している。その表面はなめらかな平面である。しかし、我々はそこに洞窟の暗い奥行きを見る。その暗い空間を知覚しているわけではない。この奥行きはピクトリアル・イリュージョンと通常はいわれているけれど、立体視のように錯視しているわけでもない。絵画表面があたかも凹んでいるように見えているわけではない。知覚しているのはあくまでもキャンバスの黒い平面だ。奥行きは、錯視でも知覚でもなく、想像だ。知覚に基づいた想像なのだ。

知覚しているのは黒いキャンバス表面である。しかし、その知覚している物理的平面の存在定立が無効にされ、そこに洞窟の暗闇の空間を見ている。キャンバスの平面に穴が穿たれている。この穴は知覚ではない。知覚しているのはキャンバスの平面だ。また、この穴は錯視でもない。錯視のような非現実感がない、チラつきもない。この奥行きは想像しているのだ。

しかし、絵画の想像は自由な想像ではない。知覚に基づいた想像だ。自由な想像のように勝手気ままにイメージを思い浮かべることはできない。赤い絵具が塗られた林檎を青い林檎に変えることはできない。セザンヌのリンゴはセザンヌがキャンバスの平面に描いたとおりに想像している。ところが、ここで知覚と想像の間に対立が生じる。グリーンバーグの言葉によれば「弁証法的緊張」だが、むしろ、ここでは、想像が知覚を抑圧していると言ったほうがよい。

図像主題がキャンバスの物理的平面の知覚を妨げる。もちろん絵画的想像(ピクトリアル・イリュージョン)はキャンバス平面の線や色の知覚に基づいているのだから、注意を向ければ、あるいは近づけば、キャンバスの物質的表面を見ることができる。クールベの《ルー川の洞窟》も、近づいてキャンバスの平面を見れば、洞窟の暗闇ではなく、少しオーキー色が混じった黒い表面が見える。少し離れてみると、微妙な色調の違いは消え、真っ暗な洞窟の暗闇が現れる。

それなら、ロスコの抽象画の黒はどうだろう。隠してくれる図像主題が無いのだから、絵画の平面が剥きだしになっている。確かに錯視も想像もない。ただ、知覚だけが働いている。

次回はロスコの黒について


2011.12.11[Sun] Post 02:05  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

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