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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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②『ポロック展』のあと、所蔵展でモーリス・ルイスの《デルタ・ミュー》を見た。

ニョウボは、現代美術館のロスコ展で涙を流したのを今でも悔やんでいる。あれは、浪花節に感動したようなものだと言い張る。それでも、川村記念美術館の《緑、黒、黄褐色のコンポジション》や大原美術館の《Cut Out》を見て、ひょっとしたら、ポロックが分かるかもしれないと、名古屋に来る前は少しは期待しているような口ぶりだった。ところが、実際に見て、やっぱり分からないという。マチスのような空間があると思ったけれど、無い。黒だけで何でも解決しようとしている。人の形や顔が見え隠れして煩わしい。横長の作品は額に入れた「書」に見える。やっぱり抽象画はわからない。マチスが一番いい等々。

ニョウボはそう言ってガッカリしているし、私の方といえば、立体視やら運動視差やらのオプティカル・イリュージョンのために、目がおかしくなり、まともな絵画的イリュージョン(想像)を見ることもできなくなり、ふたりとも草臥れてロビーに出た。すると所蔵作品展の受付の女性に「こちらもどうぞ」と案内された。ニョウボはどういうわけか見てくると言う。私はソファーに座って待つことにした。戻ってきたニョウボは、ルイスがあるという。中村一美も白髪一雄もあるという。「どうする、ルイスはちょっといいわよ」と、滅多に言わないことを言う。それならと、見ていくことにした。

展示室5のテーマは『20世紀の美術 ポロック以後の絵画を中心に』がテーマだった。ニョウボはまっすぐにルイスの《デルタ・ミュー》の前に行き、「ほら、白がいいでしょう」と言った。確かに「白がいい」 わたしはすぐに藤枝晃雄がルイスについて述べた言葉(『現代美術の展開』)を思い出した。

これは、ロウ・キャンバスの使用によって、キャンバスを絵具で染めた部分とキャンバスの地とを物理的のみならず視覚的に同次元化するためである。そして、この同次元化において最も重要なのは、キャンバスの他の白もふくめて、すべてが色彩になることである。その白は、絵画制作における背景を描くための空白ではない。(『最後の絵』 フォーマリズムの平面についてp31『現代美術の展開』)


この作品は、川村記念美術館の『モーリス・ルイス 秘密の色層』展で見たはずだが、覚えがない。どちらにしろあの展覧会では、ヴェイル絵画もアンファールド絵画も、いくつも並べてあって、ステイン技法といっても、いろいろな抽象画の分類のひとつだと思っただけだったような気がする。同一作家の似たような抽象画がならべてあると、表面的な違いばかりに目がいって、作品そのものを見ることが出来なくなるのかもしれない。もちろん、これは私の鑑賞眼の未熟のためなのだが。

ヴェイル画を『秘密の色層』展で見たときは、ユザワヤの衣裳用の布地売り場に紛れ込んだような気分になったけれど、後日、川村記念美術館の常設展示で《ギメル》をひとつだけ見たときは、感動した経験があるのだけれど、今回のアンファールド絵画もそんなことなのかもしれないと思った。白がいいというよりも、白の三角形、帆の部分が盛り上がって見えると言う。たしかに、白の部分が余白でも地でないことはもちろん、図というだけでは済まないような空間の密度があるように見える。これもポロックの錯視の後遺症なのかもしれない。

余白といえば、李禹煥の『余白の芸術』(『李禹煥論』)を思い出すが、あれは、どちらかと言えば、空虚な思わせぶりな余白だった。李禹煥の作品には支持体の白を残した作品や、筆のカスレを生かした抽象画があるが、それはたいていは余白あるは背景であって、白ではない。ポロックの晩期のブラック・ポード絵画も、黒が図であり、白は地なのだが、それと違って、ルイスの余白が密度の高い白い色面に見えたのは、ステイン技法による絵具と支持体と余白の同一次元化だけが理由ではない。しかし、それが何かはハッキリとは分からない。

抽象画を見るには、ある構えのようなものが必要だといったのは上田高弘である。絵画を見るということが、その割合は別にして、知覚と錯覚と想像を働かせることなのは、抽象画でも具象画でも同じことだ。第五展示室の『ポロック以後』の抽象画をひと通り見たけれど、ルイスの《デルタ・ミュー》を見た後では、どれも、みすぼらしい作品に見えた。並べると、フォンターナの《空間概念》、フォートリエの《黒の青》、白髪一雄、斎藤義重、堂本尚郎、ステラの《リヴァー・オブ・ポンズⅣ》、桑山忠明《茶白青》、中村一美《破舎仏涅槃図Ⅰ》、それから辰野登恵子の《Untitled95-1》があった。他に根岸芳郎と松本陽子の作品があったが、ただステイン技法を使っているということ以外に、そこに掛けてある理由が分からない不思議な絵だった。

絵画を見ることはピクトリアル・イリュージョンを見ること、すなわち「知覚に基づいた想像」を働かせることだ。図像主題のない抽象画でも想像を働かせる事は出来るのではないか。たぶん抽象画がつまらないのは私が抽象画を見る構えができていないだけかもしれない。何度も挫折している藤枝晃雄の『ジャクソン・ポロック』にもう一度挑戦するつもりだ。


2011.11.19[Sat] Post 02:11  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

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