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『芸術闘争論』 村上隆著

最初の村上の芸術論『芸術起業論』は読んでいる。その後のニコニコ動画の連続講義『芸術実践論』も幾つか見た。そして、今度の『芸術闘争論』は図書館で借りてパラパラと読んだ。

村上は自分の目指すものは「現代美術」や「アート」ではなく、世界に通用する「西洋式ART」だと言う。日本は「悪い場所」だからと言って、何もしない人間の怠惰と自己欺瞞こそがいちばん「悪い」。あるいは、現代美術のゼロ地点はデュシャンの《泉》だとも。カタカナの「アート」も「悪い場所」も「ゼロ地点」も椹木野衣の用語だろう。それなら、村上のことは椹木に聞くのが手っ取り早い。さいわい、YOMIURI ONLINE(2/7)に椹木野衣が『芸術闘争論』の書評を書いている。

椹木によれば、村上は世界のアート・シーンのトップ・プレイヤーとして体験してきた時代の変化や新しい構造、その渦中でアーティストとして生き延びていく秘訣を、惜しげもなく披露している。それは自慢話でも、マーケッティング戦略でもなく、村上の「野望」は、欧米によって主導され、価値判断そのものを支えてきたルールを改変し、主導権を握ることにある。

村上は、『芸術起業論』で世界のアート・シーンに受け入れられるためには、西洋美術のコンテクストに位置づけられなければならないと言っていた。ところが、この『芸術闘争論』では、自分たちで世界のアートのルールを変えようと主張している。そのためには自分一人ではかなわない。このままでは、欧米ではアニメ漫画のジャポニスム、国内ではオタクのパクリで終わってしまう。

村上隆は『芸術闘争論』はスーパーフラットという言葉を使わない。それは、所詮、ジャポニズムだ。まず、オタクやアニメの内向的私小説的な貧乏根性をやめることだ。予備校美大公募展日本画のシステムを解体し、世界の現代美術のルールを学ぶことで、西欧のハイアートの世界に打って出る。そうすることで世界の現代美術のルールを変えようというのだ。

そのためには、ギャラリーがアーティストと客の間を仲介する日本の現代美術の制度を解体しなければならない。「客⇔ギャラリー(画廊)⇔アーティスト」ではなく、ギャラリーとアーティストの間にエージェントを入れる。エージェントは権利管理だけではなく、新しいマーケットの創造もする。その「ギャラリーとエージェントとアーティスト」をまとめた会社が《カイカイキキ》である。

椹木野衣の言に反して、『芸術戦闘論』は村上のマーケティング戦略を書いた本であり、そのことは『芸術起業論』から一貫している。椹木は書評の結末で、「芸術の真価を問うのは未来の人の手に託されている」と、村上の「夢」に触れている。しかし、そんな要領の得ない話ではなく、村上隆がマーケティング戦略に従って企画制作した村上隆の新作《黒田清輝へのオマージュ。『智・感・情』TONY+カイカイキキ工房》について、椹木野衣が東京新聞(7/2)に『裸体画論争を現代化』を書いている。

以下は、椹木野衣の『裸体画論争を現代化』についてブログに書いて、結末をどうしていいのか分からなくなって、下書きのまま放っておいたものを引用する。

ロンドンのガゴシアン・ギャラリーの個展に出品予定の村上隆の新作《黒田清輝へのオマージュ。『智・感・情』TONY+カイカイキキ工房》が日本のカイカイキキギャラリーで展示された。

この作品について椹木野衣が『裸体画論争を現代化』という美術評論を東京新聞で書いている。「裸体画論争」とは、黒田清輝がフランスから帰って裸体画《朝妝》を発表したとき起きた「芸術か猥褻か」という論争のことだ。

黒田清輝といえば、図工の教科書に図版が載っていた《湖畔》を思い出すだろう。中学生の私にも、湯上りの浴衣姿の女が色っぽいということぐらいの知識はあった。しかし、《湖畔》は色っぽいというより、ひどく「いやらしい」絵に見えた。そのときは、性のことばかり考えているからだと思ったけれど、今、見ても猥褻な感じがする。日本画の浴衣姿の女とはちがって、糊が付いていない浴衣の胸がはだけているところが猥褻に感じるのだろう。

黒田清輝にとって、西洋の女性を油彩で描くということは、日本女性とはことなる肉感的な女性を描くことであった。黒田はアカデミズムと印象派の折衷的な絵を描いていたラファエル・コランから印象派を学び、帰国後も印象派風のヌードを描いていた。しかし、この《智・感・情》では、コランのアカデミズムの影響を受け、理念的なものを表現しようとしているのだろう。

《智・感・情》は、黒田が初めて日本人をモデルにした裸体画だ。この作品は《湖畔》と共に、1900年のパリ万博に出品されたが、海外での評判は《智・感・情》のほうが高かったという。《湖畔》は団扇やキモノなどジャポニスムの小道具が描かれてはいるが、フランス人にとってはごく平凡な外光派の作品に見えたろう。

《智・感・情》の方は、当時のフランスのオリエンタリズムの文脈の中で受容されたのではないか。全くのヌードであり、背景もなく、日本人であることは容貌と体つきから推察できるだけだ。両側の女性は、黒い髪を垂らしたり、手を顔の近くに持ってきて、多少は、淫靡の印象が無くはないけれど、真ん中の《感》は、理想化され、エロティックな雰囲気はなく、西洋の女神と日本の仏像を折衷したような象徴性をもっている。

右の《智》は、左手が印を結んでいるように見え、左手を額にあてて、何か思案をしている仕草だ。右の《情》は、少しうつむき加減で、ほどいた長い髪が顔に掛からないように右手でおさえ、顔をしかめ、左手は股間に持ってきている。これらの仕草や表情は日本人には「猥雑な」印象を与えるのだが、西洋人にはどう受けとられたのだろうか。

《智・感・情》はパリ万博で銀賞をもらっているのだから、世界の文化シーンのパリで一級の芸術品であることを認められたと、椹木は言うのだが、たぶん、それは、モダニズムに影響を与えたジャポニスムではなく、エキゾチシズムとして受けとられたのではないか。

それなら《智・感・情》は芸術か猥褻か。




椹木は 『裸体画論争の現代化』というタイトルで、「芸術か猥褻か」の問題設定をしたけれど、『芸術闘争論』の村上の立場から見れば、《黒田清輝へのオマージュ》は、明らかに、「ジャポニスムか西洋式ARTか」の問題設定なのだ。「芸術か猥褻か」の問題設定は、黒田清輝の場合だって間違った問題設定であり、《智・感・情》はフランスに持っていけば、ひとまずはアカデミズムのヌードの基準は満たしていると受けとられたろう。それにもかかわらず、モデルは黒髪の日本人であり、感情の表現も合わさって、ジャポニスムとして受け入れられたと想像される。

同じことは《黒田清輝へのオマージュ》にも言える。オタクの味付けをされているだけに、なおいっそうジャポニスムなのであり、もしそれが「西洋式ART」として受けとられるとしたら、それは多文化ポップの日本部門としてであり、それは結局のところジャポニスムに帰着する。

話は変わるけれど、黒田の《智・感・情》と村上の《黒田清輝へのオマージュ》を改めて比べてみると、何かと悪口の言われる黒田だけれど、百年前に既にオタク風のヌードのイラストを描いていたことは、やっぱり驚嘆すべきことではないか。

誤字脱字は明日なおします。おやすみなさい。





2011.09.30[Fri] Post 02:07  CO:0  TB:0  -村上隆  Top▲

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