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鴻池朋子(1)

  鴻池朋子展(MIZUMA ART GALLERY)★★★★

 鴻池朋子の個展「惑星はしばらく雪に覆われる」(MIZUMA ART GALLERY)に行った。
 部屋にはいると、鏡を貼り付けたオオカミの像が置いてある。きらきらと輝いて、キャバレーのミラーボールを思い出すが、取り立て面白いことはない。鏡の小片を貼り付けたものは、芸術作品ばかりではなく、温泉街のインテリアにもあるが、このオオカミに何か特別のコンセプトや知覚の面白さがあるのか判らない。
 似たような作品に、名和晃平の「PixCell-Deer#4」がある。鹿の剥製に透明の大きなビーズ玉を貼り付けたもので、ビーズ玉がレンズになって、中の鹿が見えるという趣向は、「物を見ること」や「物がそこにあること」に関するコンセプチャルな視点がある。
 鴻池の鏡はどうだろう。透明のビーズ玉は光を透過させることによって他のものを写し出し、鏡は反射することによって他のものを写し出す。両方とも、自分が存在するという意味では、存在論的な素材なのだが、鴻池はその鏡を美的に処理しているだけのようだ。あるいは、オオカミの足下に鏡の破片がならべてあって、これは銀河なのか氷原なのか、鴻池の物語の世界からみれば、氷なのだろうが、どちらにしろ、メルヘンチックな世界であることには違いない。
 それから、オオカミには足が六本あるのは、なにかの象徴なのだろうが、それにしても、鴻池の作品にはシンボルやアレゴリーが満載で、ひょっとしたら、ポストモダンの記号論で読み解くべきものかもしれない。
 次の部屋には、開かれた大判の厚い書物が展示してあり、そこに鉛筆画が描かれている。書物に描かれているのだから、これは挿絵で、他のページには活字が印刷されているのだろうし、そこには、大昔の神話か、あるいは未来のSFが語られているに違いないのだが、だからといって、挿絵をじっくりと見るのも億劫な細密画である。
 相笠昌義や富谷悦子のエッチングを見たときもそうなのだが、私には細密画を楽しむ能力に欠けている。勿論、その細密画の世界に入れば、多様な物語を紡ぐことが出来るとはおもうのだが、それは、あくまで挿絵イラストに触発された想像世界の楽しみであり、絵画を見ることの楽しみとは別のものだと今のところは勝手に決めている。
 さて、帰ろうと、最初の部屋に戻り、『鏡のオオカミ』の反対側のコーナーにあるビデオ・インスタレーションを見た。ビデオ・インスタレーションならつまらないに決まっていると、あまり期待せずに見たのだが、何故か理由も分からず引き込まれてしまった。天井に吊されたプロジェクターから、台の上に開かれた白紙の大型本に、"mimio -Odyssey-"のアニメが映写されているのだ。
 その映像が、平らなスクリーンではなく、開かれた本のページなのでページの間が凹んでいるのだ。そこを六本足のオオカミやミミオが歩いていく。その映像は紙の上の物質的な色素ではなく、光の明暗なのであり、その像がページの曲面の上を動いた行くと、伸びたり縮んだりする。それが奇妙に面白いのだ。面白いというのは正確ではない。エロチックというと少し言い過ぎだし、なかなか適切な表現がないが、鉛筆画は紙に付着した炭素の粉だが、映像は紙の表面を照らす光のまだら模様なのだ。とにかく、その光の愛撫は、見ることの快楽なのだ。
 不思議な体験である。私たちより先に若い男がじっと見入っていたのだが、ちょっと場所を譲ってくれたあと、また身動きせずに眺めていた。
 わたしは、古妻に「面白いね。何んで面白いんだろう。分からない。考えてみて」といって、ビデオを見続けた。
 ビデオが終わったあと、五階に上がり、 烏丸由美展を見てから、車に戻った。女房は、鉛筆画のアニメが右から現れ、左に消えて、また右から現れると言う具合に、ページをめくっていくようになっているのが面白いと言う。
 たしかに、鴻池の意図は、本を捲って挿絵を見るのではなく、動く挿絵のアニメを本の白いページに映して、物語を語ろうというのだろう。
 しかし、それだけでは"mimio -Odyssey-"の魅力を説明できない。わたしは、これは、もっと絵画の本質に関わることだと思う。
 ビデオ・プロジェクターから投射される光の明暗は、白い紙の上に投射され、その光の明暗が像を結ぶ。その像は、紙の上の光の明暗であって、紙そのものは白い物質的な繊維である。しかし、そこに浮き出ている像そのものは物質ではないが、その像によって描かれているオオカミやミミオは物質的な存在である。ということは、物質的な白い紙と、非物質的な光と、非物質的ではあるが物質的な対象を意味する図像の三者が、本の白い平面の上で互いに戯れあっていることになる。
 右から現れたオオカミは、歩きながら本の中央に進む。本は盛り上がり、オオカミは細くなり、それから本は凹みはじめ、オオカミは膨れ、ぼやけ、ゆがみ、崩れ、光の明暗となって、本の白い表面を照らし出す。
 映画では、映像が支配しており、光の明暗もスクリーンの物質的平面も背後に隠れている。しかし、この鴻池の"mimio -Odyssey-"では、本の物質性が剥き出しになり、映像の反物質性との弁証法的緊張が見事に露呈している。
 鴻池は、最初からこのことを意図していたわけではないだろう。おそらく、女房のいうとおり、ページを捲るようにストーリーを展開したかったのだろう。それが、本という変形スクリーンがウマイ具合に作用して、予期しない効果を生んだに違いない。
 どちらにしろ、ぜひ、期間中にMIZUMA画廊にいって、じぶんの目で確かめてください。決して損はしません。
 もちろん、これは偶然のことで、鴻池朋子が本来目指したことではないので、おそらく、偶然が偶然のまま終わってしまう可能性が大きいと思われる。それは、残念なことだが、われわれは、彼女がこれから展開するだろう物語に期待するというほかない。 
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2006.11.04[Sat] Post 00:49  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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