〔10〕美術評論とはなにか:ピカソの肖像画を見る〈知覚、錯覚、想像〉

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前回の記事で、ピカソの《ドラ・マールの肖像》を見ると約束した。そのあと『ピカソ展』のカタログを繰り返し見ている。会場ではチラッとチラツキが見えたのだけれど、カタログではなかなかチラツキの錯視が見えない。実作では横顔と正面の顔がチラチラと交替するような気がしたのだが。

picasso ドラ・マールともかく、知覚、錯覚、図像主題を気にせずに、顔に注意を向けよう。なかなか視線が定まらない。顔がどう見えるか。大雑把に言うと、三つの分かれる。

(1) 横顔と正面やや右からの顔が合わさった顔
(2) 二人の顔、右半分の顔の向こう側から横顔がのぞいている。
(3) 一人の顔(ドラ・マールの肖像)

(1)は、いわゆる図像客観で、知覚だ。図像客観を見るのは結構難しい。物理的図像(キャンバス地や絵具)を見るのはモニターではなお難しい。

(2)は、二つの顔が別々の平面にあるように視える。見えない人は、片目で首振り立体視をすると(たぶん)ハッキリと見える。これは錯視である。

(3)は、正面の顔が主で、横顔が従になる。少しチラツキが見える。(1)は、そのままの歪んだ顔を見るのだが、(3)は人の顔を見るのだから、むしろ、(2)と拮抗状態になり、チラツキになって見えるのかもしれない。

細部をよく見ると、ということは、図像客観として見ると、右からの横顔の目が左目になっている。正面の顔の目も下瞼とまつ毛が横顔の右眼になっている。図像主題としてみれば、それほどの違和感がない。気がつかないほどだ。

視線は黄色い顔から黄色い右手に、そして同じ黄色に塗られた左手に移動する。右手の指はバラバラで、左手には右手の手のひらが付いている。

顔や手は、表情を持ちやすく、観者の視線を強く惹きつけるので、モダニストたちはその処理に苦労した。それをもっとも大胆に解決したのがピカソとマチスだった。

ピカソとマチスは観者の視線を顔と手から自由にしたのだ。

下のマチスの《紫のロープ》とピカソの《ドラ・マールの肖像》の顔と手を比較してください。《紫のロープ》は小さいので、画集かネットで自分で探してください。




紫のローブ














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