ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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前回に続き、ご丁寧な対応、痛み入ります。そして、私に誤解があるとの御指摘、ありがとうございました。私自身、誤解や思い込みがあるだろうことは充分想定しています。
その誤解や思い込みを出来るだけ早く気付き、修正することがブログを始めた理由の一つ
です。ですから、それを指摘してくださるのは眞にありがたいことと思っています。
…ですが、恐らく私の読解力に問題があるのでしょうが、私の誤解がどういったものか、
残念ですがイマイチ解りませんでした。
 知覚、錯覚、イリュージョンの明確な違いを述べていただくのを楽しみにしています。
因みに、イリュージョンの問題に関して、私見、持論を私のブログ、「”見える通りに見る”ということ」で書きましたので、もしよろしければ覗いてみてください。
2011.06.10[Fri]  投稿者:岡田萬治金箔美術/岡田武  編集  Top▲

Re: No Subject

岡田さんへ
なんども言っているように、知覚、錯視、想像が明確に区別できるわけではないのです。あるいは対象側で言えば、物理的図像、図像客観、図像主題が比較的ハッキリと区別できるのはモノクロ写真ぐらいです。そこに私の説明が混乱した理由があります。

岡田さんの間違いは、現象学的還元がされていないといういうことです。茂木健一郎も現象学的還元が出来ていません。

百合が処女性を表わすという図像学が絵画の面白さと関係がないのと同じように、ゴッホの色彩について補色理論を持ち出してもあまり意味がない。図像学も色彩心理学もイラストやデザインを説明するのには多少は役立つでしょうが、それも、作者がそういう理論を用いて絵を書いている限りに於いてであり、絵画の良し悪しにはほとんど関係がありません。

続きはブログで
2011.06.11[Sat]  投稿者: 安積 桂  編集  Top▲

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岡田さんへの手紙続

最後の「絵の良し悪しと」ほとんど関係がないというのは、また、誤解されるといけないから、といっても、たぶん、通じないだろうけれど、赤と緑の違いは光の波長で一応説明できるけれど、赤の赤さを理解するには赤を見なければならないということです。簡単なことなんだけれど。

次の段階として、それなら、私が見ている赤さとアナタが見ている赤さは同じかという問が生じる。もちろん生じます。赤という言葉が同一性を保証しないからです。逆スペクトルがあるかもしれないからです。

でもその問はデカルト的懐疑であり、現象学的懐疑ではありません。現象学では懐疑ではなく、信念の問題になります。同じ赤を見ているという根源的な信念です。もういちど『茂木健一郎』を読んでください。それと、『養老孟司』http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-144.htmlも読めば役に立つでしょう。
2011.06.11[Sat]  投稿者: 安積 桂  編集  Top▲

No Subject

 ご丁寧な返事、ありがとうございました。
私が安積様の文章に、興味をかき立てられたのは、知覚と錯覚とイリュージョンに、あえて異なる意味を与えることにより見出される絵の要素を問題にされているのではないかと考えたからです。私の理解では、用語の問題として、錯覚やイリュージョンは知覚に含まれ、「錯覚という知覚」であり、これに関しては対立する語句として、区別するようなものでは無いと思っています。
 又、私の誤解への指摘、眞にありがたいのですが何分、私はフッサールを読んだことが無く、「現象学的還元がされていないから」といわれても困ってしまうばかりです。そして「現象学的還元がされていない」事柄は総て間違いになってしまいます。
 図像学や色彩心理学を持ちだされ、これらは絵の面白さ、良し悪しとは当然の如く関係は無いと断言しておられますが、それには一定の論拠が必要でしょう。私は図像に内在した意味性こそ重要な絵の要素であると考えています。たとえば信貴山縁起絵巻の面白さは、かなりの割合で図像の意味性に拘っています。
 又、赤の赤さを理解するには赤を見なければならないということですが、赤を理解することと赤さを感じることとは別の次元ではないでしょうか。その赤がアナタが見ている赤と同じであるかという保証は、理解としての赤という言葉をおいて他には無いでしょう。赤という言葉が赤の同一性を保証しないのでは無く、同一性を保証するのは唯一、赤という言葉のみであると、私は思っており、それが絵を語る上で重要な視点ではないかと考えています。信念とは、ある事柄についてもたれる確固とした認識ないし考えであるから、それは上記同様、理解の範疇です。クオリアはもう一方の次元の感覚の問題であろうかと思います。
 ブログ『養老孟司』を拝見しました。養老孟司氏のことは何も知りませんのでコメント出来ませんが、ただ、ソシュールはシーニュの持つ作用を絵の記号に当てはめようとした訳ではありません。むしろ絵の記号を一般記号として、意味作用を司る言語記号と分離したのであり、そのことが私が疑問に感じる点です。
2011.06.12[Sun]  投稿者:岡田萬治金箔美術/岡田武  編集  Top▲

Re: No Subject

岡田さん

返事は後ほど。

 
2011.06.17[Fri]  投稿者: 安積 桂  編集  Top▲

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ピカソの肖像画を見る

前回のブログに対する岡田武さんからのコメントを以下転記


懇切丁寧なご教示ありがとうございました。
目の錯覚と錯視、知覚、それにイリュージョンがそれぞれ別のもということを初めて知りました。
ミュラーリアーの錯視を持ち出したのは、私の理解では錯視とは目に係わる錯覚のことで
あり、計れば同じ長さの二本の線が違って見えるこの目の錯覚とは、なんらかの要因で現
れた知覚であると。つまり錯覚とは客観的事象とは異なる知覚であると思っていました。
そしてイリュージョンの本来的概念は「錯覚」と訳されます。オプティカルイリュージョンは光学的錯覚。ピクトリアルイリュージョンは絵画的錯覚であり、これらは知覚の多様性から計られるものであると思っていました。
 それから絵を鑑賞する際の物差しの問題ですが、私は鑑賞者であると同時に作り手でもありますから、その際、物差しは必需品です。実際の物差しはもちろんですが観る時、作る時には指針となる尺度がどうしても必要です。そしてその精度を絶えず疑いつつ、その精度を維持するよう心がけています。
ちなみに「見える通りに見える。」と仰いますが、ミュラーリアーの錯視の強度に地域や文化によって差があるという統計データをご存知ですか。図らずも私のブログ、(約3ヶ月前より始めた未熟なブログではありますが、)「リアリティとオリジナリティはこれからも有効か?」「知覚というもの」で取り上げていますのでよかったらお立ち寄りください。
これからもご教示よろしくお願いします。

ブログの『知覚というもの』を読みました。まず、岡田さんの絵の見方は私とは随分と違っています。正直に言うと誤解があります。岡田さんの誤解は大まかに三つに分けられる。哲学的問題と知覚心理学の問題と絵画鑑賞の問題の三つです。本当は三つ目の絵画鑑賞、すなわち「絵を見ること」という一つの問題なのだが、岡田さんが理解しやすいように分けて考えます。

1 哲学的問題:「知覚というもの」で書かれているのは「クオリア」問題である。これは私が『茂木健一郎』で詳しく書いたのでそれを読んでもらえばいい。ただここでは、共同主観性の問題だということだけ指摘しておく。

2 「錯覚とは客観的事象とは異なる知覚だ」というときの客観的とは何か。目で見た長さが主観的で、測定した長さが客観的だという根拠は何だろう。それはわれわれの態度の違いであり、前者は測定に基づく科学的態度であり、後者は鑑賞的な態度に現れる長さなのだ。「錯視の強度」については、「純粋な知覚はない」と言ったことを思い出して欲しい。地域や文化によって「錯視の強度」が違うというのも、文化相対主義から見れば、さして驚くことではない。そんな大げさなことを言わないでも、例えば熟練した大工さんなら、我々より(認知実験したときは)錯視の強度は低いと思われる。それは大工さんは鑑賞的態度ではなく、行動的関心で長さを見る訓練をしているからだ。たぶん「錯視の強度」の差が顕著に現れるのは、識別実験をしたときではないか。被験者は科学態度をとろうとするからだ。

何れにしても、鑑賞的関心で見ているときは、「見える通りに見ている」のだ。たとえば、線分ではなく、時間の長さは、ストップ・ウォッチで計られた五分と五分は同じ長さだが、ウォーホルの《エンパイア》を見ている五分と、ディズニー映画を見ている五分と比べれば、あきらかに《エンパイア》を見ている五分の方が長く感じる。もちろん二本の線分は同時に見ることができるが、二つの時間を同時に体験することは出来ないというかもしれない。しかし、線分だって、いろいろ条件を変えて、時間を前後させて提示する事は出来る。重さなら、秤を使わずに、例えば綿一キロと鉄一キロのどちらが重く感じるか鑑賞的関心と行動的関心で比較事件することができる。この辺りの議論には、あまり深入りをしても仕方ない。ただ、鑑賞的態度で絵を見ているときは見える通りに見ていることを確認すれば十分だろう。

それから、作る立場での物差しの利用ですが、設計図を描くなら別ですが、絵画を描くときは、まさに岡田さんが言うように、物差しを使ってひいた線を「見える通りに見る」ことによって修正されるわけだ。わたしは、物差しを使うなといっているわけではない。絵を描く側も鑑賞する側も、最終的には「見る」ことを根拠にしなければならないのだ。

ただ、物差しを使うことは、制作する画家も鑑賞する観者も、鑑賞的関心ではなく、科学的行動的関心で絵画を見る危険がある。物差しを使って絵を見るのは、大抵は美術史の研究家だし、岡田さんが「精度を維持する」と言っているのも、まさに自然科学的態度のことなのだ。(ハイデッガーは自然科学のexakt(精密)と哲学のstreng(厳密)を区別する) もちろん、岡田さんの作品をみていないので、これは推量しているだけだが。

3 さて最後に「絵画鑑賞」の問題だが、前回はセザンヌの《赤いチョッキをの少年》を例に絵画の線の長さとは何か具体的に見た。今回は、岡田さんが指摘してくれた知覚、錯覚(目の錯覚を含む)、絵画的イリュージョンの違いを考えて見たい。この三つは厳密に区別出来るものではなく、その境界はあいまいであり、いくつかの志向的層が重なっていることもある。一番重要なの知覚と絵画的イリュージョンの違いであり、なんども繰り返すが、絵を見ることは知覚に基づいたイリュージョンを見ることだ。自由な想像ではなく、知覚に基づいた想像ということに、総ての絵画の神秘がある。

まず、知覚と錯覚とイリュージョンの違いを理解するに好都合なピカソの絵を使って説明しよう。

次回につづく、下のピカソの肖像画《ドラ・マールの肖像》を見てください。小さな写真では分らないかもしれません。2008年の国立新美術館のピカソ展で見たときに初めて気づいたことです。




picasso ドラ・マール 

2011.06.05[Sun] Post 23:17  CO:5  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

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です。ですから、それを指摘してくださるのは眞にありがたいことと思っています。
…ですが、恐らく私の読解力に問題があるのでしょうが、私の誤解がどういったものか、
残念ですがイマイチ解りませんでした。
 知覚、錯覚、イリュージョンの明確な違いを述べていただくのを楽しみにしています。
因みに、イリュージョンの問題に関して、私見、持論を私のブログ、「”見える通りに見る”ということ」で書きましたので、もしよろしければ覗いてみてください。
2011.06.10[Fri]  投稿者:岡田萬治金箔美術/岡田武  編集  Top▲

Re: No Subject

岡田さんへ
なんども言っているように、知覚、錯視、想像が明確に区別できるわけではないのです。あるいは対象側で言えば、物理的図像、図像客観、図像主題が比較的ハッキリと区別できるのはモノクロ写真ぐらいです。そこに私の説明が混乱した理由があります。

岡田さんの間違いは、現象学的還元がされていないといういうことです。茂木健一郎も現象学的還元が出来ていません。

百合が処女性を表わすという図像学が絵画の面白さと関係がないのと同じように、ゴッホの色彩について補色理論を持ち出してもあまり意味がない。図像学も色彩心理学もイラストやデザインを説明するのには多少は役立つでしょうが、それも、作者がそういう理論を用いて絵を書いている限りに於いてであり、絵画の良し悪しにはほとんど関係がありません。

続きはブログで
2011.06.11[Sat]  投稿者: 安積 桂  編集  Top▲

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岡田さんへの手紙続

最後の「絵の良し悪しと」ほとんど関係がないというのは、また、誤解されるといけないから、といっても、たぶん、通じないだろうけれど、赤と緑の違いは光の波長で一応説明できるけれど、赤の赤さを理解するには赤を見なければならないということです。簡単なことなんだけれど。

次の段階として、それなら、私が見ている赤さとアナタが見ている赤さは同じかという問が生じる。もちろん生じます。赤という言葉が同一性を保証しないからです。逆スペクトルがあるかもしれないからです。

でもその問はデカルト的懐疑であり、現象学的懐疑ではありません。現象学では懐疑ではなく、信念の問題になります。同じ赤を見ているという根源的な信念です。もういちど『茂木健一郎』を読んでください。それと、『養老孟司』http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-144.htmlも読めば役に立つでしょう。
2011.06.11[Sat]  投稿者: 安積 桂  編集  Top▲

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 ご丁寧な返事、ありがとうございました。
私が安積様の文章に、興味をかき立てられたのは、知覚と錯覚とイリュージョンに、あえて異なる意味を与えることにより見出される絵の要素を問題にされているのではないかと考えたからです。私の理解では、用語の問題として、錯覚やイリュージョンは知覚に含まれ、「錯覚という知覚」であり、これに関しては対立する語句として、区別するようなものでは無いと思っています。
 又、私の誤解への指摘、眞にありがたいのですが何分、私はフッサールを読んだことが無く、「現象学的還元がされていないから」といわれても困ってしまうばかりです。そして「現象学的還元がされていない」事柄は総て間違いになってしまいます。
 図像学や色彩心理学を持ちだされ、これらは絵の面白さ、良し悪しとは当然の如く関係は無いと断言しておられますが、それには一定の論拠が必要でしょう。私は図像に内在した意味性こそ重要な絵の要素であると考えています。たとえば信貴山縁起絵巻の面白さは、かなりの割合で図像の意味性に拘っています。
 又、赤の赤さを理解するには赤を見なければならないということですが、赤を理解することと赤さを感じることとは別の次元ではないでしょうか。その赤がアナタが見ている赤と同じであるかという保証は、理解としての赤という言葉をおいて他には無いでしょう。赤という言葉が赤の同一性を保証しないのでは無く、同一性を保証するのは唯一、赤という言葉のみであると、私は思っており、それが絵を語る上で重要な視点ではないかと考えています。信念とは、ある事柄についてもたれる確固とした認識ないし考えであるから、それは上記同様、理解の範疇です。クオリアはもう一方の次元の感覚の問題であろうかと思います。
 ブログ『養老孟司』を拝見しました。養老孟司氏のことは何も知りませんのでコメント出来ませんが、ただ、ソシュールはシーニュの持つ作用を絵の記号に当てはめようとした訳ではありません。むしろ絵の記号を一般記号として、意味作用を司る言語記号と分離したのであり、そのことが私が疑問に感じる点です。
2011.06.12[Sun]  投稿者:岡田萬治金箔美術/岡田武  編集  Top▲

Re: No Subject

岡田さん

返事は後ほど。

 
2011.06.17[Fri]  投稿者: 安積 桂  編集  Top▲

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