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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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懇切丁寧なご教示ありがとうございました。
目の錯覚と錯視、知覚、それにイリュージョンがそれぞれ別のもということを初めて知りました。
ミュラーリアーの錯視を持ち出したのは、私の理解では錯視とは目に係わる錯覚のことで
あり、計れば同じ長さの二本の線が違って見えるこの目の錯覚とは、なんらかの要因で現
れた知覚であると。つまり錯覚とは客観的事象とは異なる知覚であると思っていました。
そしてイリュージョンの本来的概念は「錯覚」と訳されます。オプティカルイリュージョンは光学的錯覚。ピクトリアルイリュージョンは絵画的錯覚であり、これらは知覚の多様性から計られるものであると思っていました。
 それから絵を鑑賞する際の物差しの問題ですが、私は鑑賞者であると同時に作り手でもありますから、その際、物差しは必需品です。実際の物差しはもちろんですが観る時、作る時には指針となる尺度がどうしても必要です。そしてその精度を絶えず疑いつつ、その精度を維持するよう心がけています。
ちなみに「見える通りに見える。」と仰いますが、ミュラーリアーの錯視の強度に地域や文化によって差があるという統計データをご存知ですか。図らずも私のブログ、(約3ヶ月前より始めた未熟なブログではありますが、)「リアリティとオリジナリティはこれからも有効か?」「知覚というもの」で取り上げていますのでよかったらお立ち寄りください。
これからもご教示よろしくお願いします。
2011.05.24[Tue]  投稿者:岡田萬治金箔美術/岡田武  編集  Top▲

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ミュラー・リヤー錯視

以前コメントをしてくれた岡田武さんから質問があったのでお答えしておきます。

ミュラー・リヤー錯視や二つに交わる線分の間に平行線を入れると、上の線分が長く見える、ポンゾ錯視はご存知だと思いますが、この同じ長さの線分が違った長さに見えるのは知覚でしょうか、それとも知覚による想像でしょうか、あるいはイリュージョンでしょうか。


行き違いになったけれど、前回の『美術評論とはなにか〔7〕』にほぼ答えがあると思います。最後のところは分かりにくかったので、少し書き加えておきました。

まず、純粋な知覚はないということ。知覚というのは常に想像や記憶を含んでいるし、想像というのは記憶に基づいているし、記憶(想起)というのは知覚に基づいている。あるいは、また、絵画を見ると言うことから考えれば、平たい物理的立体の知覚があって、その平面に絵具で描かれた図像客体が見える。これは知覚とイリュージョンが同じ視野の中に共存している。

また、円が球に見えるのは知覚とイリュージョンが融合しているともいえる。さらにそのイリュージョンを内包した知覚を通して図像主題が現れてくる。これはイメージ(イリュージョン)と意味(概念)が合わさったものだ。

まとめると、絵を見ることは、知覚に基づいた想像だということだ。

岡田さんがあげた錯視の例はいわゆる幾何学的錯視と言われるもので、これは、錯覚ではなく知覚と考えてよい。もちろん、一本の線でも、すでに地と図の違いが現れ、ゲシュタルトとしてのまとまりがあらわれるので、その限りでは、イリュージョンではある。しかし、それは、見える通りに見えているのだから、知覚と考えてよい。

もう一つ、通常言われる錯視がある。オップ・アートのチラチラする錯視だ。このチラチラするのはあきらかに知覚ではなく、目の錯覚だ。それは大抵は、チラチラしない状態と交替にあらわれる。チラチラしないほうが知覚で、チラチラする方は錯視(オプティカル・イリュージョン)だ。

このあたりも、実はかなりあいまいで、チラチラするからと言って、単純に視覚的な(オプティカル・イリュージョン)とはいえない現象もある。たとえば、これまでも何度か取り上げた親指が二本ある手が、一本の親指が前後に動いて見えるのは、明らかに、親指は一本だという知識が、二本の親指の代わりに、前後に動く一本の親指のイリュージョンを生んだのだろう。ここには明らかに、モノクロ写真の灰色の肌を桃色の肌に見るのと似たような現象がある。

さて、われわれはここで、「知覚」と「錯覚」(オプティカル・イリュージョン)と「知覚に基づいた想像」(ピクトリアル・イリュージョン)の三つに大雑把にわけることができる。知覚と知覚に基づく想像(図像主題)の区別は私の『絵画の現象学』を読んだ人にはあらためて説明する必要はないだろう。錯覚というのは図像客体とは別のものです。錯覚は準知覚、知覚もどきで、一瞬知覚と間違うこともある。しかし、それはすぐに訂正されて、知覚もどきであることが判る。たとえば、踏切の点滅する赤いランプが移動しているように一瞬みえても、すぐにそれは錯覚だと訂正される例を想い出せばわかるだろう。

この区別は、これまでも述べてきたし、これからも必要に応じて触れていく。立体(彫塑彫刻)でもこの区別はある。たとえば、ジャコメッティの塑像ではハッキリと三つが区別できる。

さて、ミュラー錯視に話を戻すと、これは見える通りに見えているので、間違いなく知覚だ。実はそのことはあまり重要ではない。というのは、絵画は見える通りに見るのであって、二本の線が「本当は」同じ長さだとか、違う長さだとかはどうでもよいことなのだ。

そもそも「本当の」長さとはいったいなんだろう。

本当は同じ長さというのは、物差しではかったり、目を細めて指を立てたり、周りを囲んでいる三角形を隠したりしたときに現れる長さだ。それは絵を通常鑑賞しているときの長さではない。「本当は」同じ長さだということは少なくとも絵を見るときには何の関係もない。絵を見るときは「見かけの」長さをみるのだ。それとも、あなたは、絵の一部を隠して鑑賞するのだろうか。それとも、物差しで測りながら、鑑賞するのだろうか。

物差しで図りながら絵を見る人はいない。美術史家で物差しを使って美術批評を書く人がいる。遠近法とか黄金分割とかむかし流行った方法だ。美術評論は目で見て書くもので、物差しで書くものではない。

絵の中で長さを見るということは、どういう事か、簡単な例で考えてみよう。ここに幾何学的図形の台形がある。上辺が底辺より短い。ところが、この台形がテーブルだとする。脚を付けてもいいし、上にコーヒーカップを置いても良い。するとその台形は矩形に見える。上辺と底辺は「本当は」同じ長さだけれど、上辺は遠くにあるから短く見える。ということは奥行きのイリュージョンが現われたということであり、これが遠近法ということだ。


セザンヌ 赤いチョッキの少年

もう少し具体的な絵画で見てみよう。

セザンヌの《赤いチョッキの少年》は手前の腕が長く見える。しかし、左右の腕は同じ長さだのはずだ。この長さの違いは遠近法の長さの差に収まりきれない。だから、不自然にもみえる。しかし、よく見ると左の前腕はむしろ右の前腕よりも長く見えるような気もする。遠近法の縮小が十分に行われていないように感じるのだ。

それにしても、右の上腕が異様に長い気もする。また、左の上腕が胸飾りの膨らみに隠されて、肩が見えないので、上腕の長さが判らない。また、右手を載せている台と左の肘を突いている台の高さが異なるのも、両腕のバランスを崩しているなどなど、われわれは、セザンヌのデッサンの未熟さを超えた不思議な魅力を感じる、というわけだ。

ここまで述べてきたことで、わかることは、ミュラー錯視などの知覚心理学の知見は絵画鑑賞にも絵画制作にも役立たないということだ。「本当の」長さなど何処にもないのだ。あるとすれば、たとえば、それは左右の腕は同じ長さのはずだという万物の尺度としての人体の比例だ。だから、われわれはヌードデッサンをするのだ。

ところが、数学的関係や知覚心理学や大脳生理学などを持ち出して絵を分析する美術評論家があとを絶たない。社会現象で絵画を解釈するのと大同小異のばかげたことである。絵の外部で絵の内部を説明することは出来ない。もちろん、フォーマリズムに置いては、形式が内容であり、内容と言われる象徴的な意味などはむしろ絵画の外部なのだ。このことは別に論じる。

それよりも、絵画において重要なものは、ピクトリアル・イリュージョンだ。上の例で言えば、左右の腕は同じ長さだということだ。セザンヌのテーブルがせり上がって、林檎が転がり落ちそうなのは、それが水平であるはずの机が傾いているから違和感を生む。同じ青でも空の青と海の青では別の青だ。マチスの室内画は、床や机とは水平のはずで、壁は垂直のはずだ。壁に掛かった絵画の平面は壁に重なったおり、窓の外の風景はずーと向こうにあるはずだけど同じ平面にあるように見えもする。ピカソの女の尻や乳房は、曲線や直線は幾何学的図形で描かれて、それでも、やっぱり尻や乳房や脚なのだ。キュビスムは水平の机が垂直になり、円筒のワイン瓶が平面になる。

ここには、知覚と知覚に基づいた想像の間の弁証的緊張関係がある。具象画には抽象画にはない独自の豊かさがある。だから、ピカソとマチスは最後まで具象画に踏みとどまったのだ。それはピクトリアル・イリュージョンのためだったのだ。

そして、写真が退屈なのは、印画紙の表面をピクトリアル・イリュージョンが支配しているからだ。知覚と想像の緊張関係がないからだ。少年の灰色の肌は、桃色の肌に完全に抑圧されている。このことで、もし権威が好きならば、バルトの『明るい部屋』からの引用を読んでください。

 何を写して見せても、どのように写して見せても、写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは志向対象(被写体)であって、写真そのものではないのである。
 要するに志向対象が密着しているのだ。そしてこの特異な密着のために、「写真」そのもに焦点を合わせることがきわめて困難になるのである。


バルトが志向的対象を被写体と同一視しているのは、必ずしも正確ではないけれど、志向的対象(図像主題)が写真そのものに密着しているというのは、上で述べたことを意味している。わたしはだから写真はつまらないといい、バルトは記号論風図像学に向かった。図像学もまた、美術史の方法であって、絵画の面白さを理解するのに役にはたたない。

ここで、ひとまず岡田さんの質問にたいする答えは終わる。

しかし、沢山の課題が残った。知覚とイリュージョン、立体と平面、知覚空間と想像空間、具象と抽象、文字と絵画などなど、次回は空間について少しだけ考えて見たい。
2011.05.21[Sat] Post 17:20  CO:1  TB:0  岡田さんへの手紙  Top▲

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目の錯覚と錯視、知覚、それにイリュージョンがそれぞれ別のもということを初めて知りました。
ミュラーリアーの錯視を持ち出したのは、私の理解では錯視とは目に係わる錯覚のことで
あり、計れば同じ長さの二本の線が違って見えるこの目の錯覚とは、なんらかの要因で現
れた知覚であると。つまり錯覚とは客観的事象とは異なる知覚であると思っていました。
そしてイリュージョンの本来的概念は「錯覚」と訳されます。オプティカルイリュージョンは光学的錯覚。ピクトリアルイリュージョンは絵画的錯覚であり、これらは知覚の多様性から計られるものであると思っていました。
 それから絵を鑑賞する際の物差しの問題ですが、私は鑑賞者であると同時に作り手でもありますから、その際、物差しは必需品です。実際の物差しはもちろんですが観る時、作る時には指針となる尺度がどうしても必要です。そしてその精度を絶えず疑いつつ、その精度を維持するよう心がけています。
ちなみに「見える通りに見える。」と仰いますが、ミュラーリアーの錯視の強度に地域や文化によって差があるという統計データをご存知ですか。図らずも私のブログ、(約3ヶ月前より始めた未熟なブログではありますが、)「リアリティとオリジナリティはこれからも有効か?」「知覚というもの」で取り上げていますのでよかったらお立ち寄りください。
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