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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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勉強させていただいております。およろしければ、質問させてください。
ミュラー・リヤー錯視や二つに交わる線分の間に平行線を入れると、上の線分が長く見える、ポンゾ錯視はご存知だと思いますが、この同じ長さの線分が違った長さに見えるのは知覚でしょうか、それとも知覚による想像でしょうか、あるいはイリュージョンでしょうか。
よろしくお願いします。
2011.04.30[Sat]  投稿者:岡田萬治金箔美術/岡田武  編集  Top▲

Re: No Subject

岡田さん 適切な質問ありがとうございます。ブログに書きます。
2011.05.04[Wed]  投稿者: 安積 桂  編集  Top▲

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〔6〕美術評論とはなにか:「知覚」と「想像」

美術評論の混乱の多くは美術評論家が像(絵画や彫刻)を見ることがどういうことか理解していないことに原因がある。

最初に断っておくけれど、この『美術評論とはなにか』ではなるべく専門用語を使わない。それは、この小論がアマチュアの美術愛好家が美術評論家にダマされないようにするのが目的だからだ。それと、美術評論用語を使うと、肝心の絵を見ないで議論のための議論に陥るからだ。

それと、あくまでも「事象そのものへ」が原則であり、作品を見ることに基づいて記述していく。その場合その事象にともなう曖昧さは避けられない。その場合、それはどちらかにきめるのではなく、その曖昧さをその事象の本質的なものとして記述するに留めておくことだ。決して理論を構築してはならない。とくに記号論には気をつけたほうがよい。もし、美術評論を読み始めて、記号論風なことが書いてあったら、すぐに読むのをやめることを薦める。理由はおいおい述べていくが、記号学というのは図像学の現代アート版なのだ。

フッサールの図像意識は、Bild(picture)を見ると言うことだった。さしあって、彫像塑像銅像などの立体像は含まれているが、抽象画は含まれていない。ようするに主題が具象的な絵画や彫刻である。そして、白黒写真を例に図像を物理的図像、図像客体、図像主題の三層にわけた。

たとえば、少年のモノクロ写真がある。印画紙は破ったり燃やしたりできる物理的図像である。図像客体は灰色の5センチの少年で、図像主題は金髪の桃色の肌の120センチの少年だ。ここまでは、わたしの『絵画の現象学』を読んで確認して下さい。

図像は三層になっているけれど、それなら対象がわではなく、意識から見た場合、どうなっているのか。フッサールは図像意識は、「知覚に基づいた想像」だという。林檎を眼前に思い浮かべたり、昨日食べた林檎を思い出したりする想像や想起とはことなる。林檎の絵は、あくまでも、キャンバス上に絵具で描かれた林檎の絵の知覚に基づいて、林檎を想像するのが、絵を見ることだ。

モノクロの少年の写真で知覚しているのは灰色の肌だけれど、見ているのはピンクの肌だ。あるいは知覚しているのは5センチの少年だけれど、見ているのは120センチの少年だ。ピンクの肌や120センチの身長は知覚しているのではなく、想像しているだけだ。もちろん、これは経験の影響を受けているわけで、絵ではなく、「少年」という言葉であっても、肌はピンクで身長は百数十センチという感覚は持っている。

フッサールは図像客体は知覚で図像主題はイリュージョンと考えていたようだが、平面に描かれている図像客体が立体的に見えるのもイリュージョンと考えられる。たとえば、円が球に見えるのは、イリュージョンだが、ハイパーリアリズムで描かれた球が、絵ではなく、本物の球に見えるのは、optical illusion(目の錯覚)である。見る位置を変えて、変化がなければ平面に描かれた絵であり、変化すれば、それは球を知覚していることになる。

optical illusionに対して、図像主題はpictorial illusionであり、知覚している事物に基づいてイリュージョンを見ていることを当の図像意識自身が自覚している。optical illusionは、一瞬知覚のような錯覚を起こすこともあるけれど、それはすぐに訂正され、知覚のように「自己自身を有体的に与える」ものではないこと判る。上のハイパーリアリズムの例も、見る位置を変えなくても、もともと知覚特有の「有体的に自己自身を与える」こと、すなわち、射影を通して現れると言う性質が欠けているので、それが本来的な知覚ではなく、目の錯覚であることは容易に判る。

オップ・アートのチラツキもoptical illusionなのだが、これは抽象画であり、pictorial illusion(図像主題)がない。pictorial illusionがあるもっといい例を上げれば、親指が二本ある手の絵である。この絵は、二本の親指のある手と、烈しく前後に動く一本の親指がある絵が交替に現れる。親指が二本ある手はpictorial illusionであり、一本の親指が動いている手はoptical illusionである。そのような錯覚が生じるのは、親指が二本あることはわれわれの経験に反するからだ。

指が一本に見えることと、灰色の肌が桃色に見えることは、経験が見ることに影響をあたえているという点では、類似の現象である。しかし、類似してはいるけれど、本質的には異なる。指の現象は、地と図のように、pictorial illusionとoptical illusionが交替で現れる。しかし、pictorial illusion(図像主題)の方は、灰色の肌を知覚しながら桃色の肌を「想像」している。

ここに絵画の秘密のすべてがあるのだ。オップ・アートは現象としては面白いかもしれないが、芸術的には意味はない。また、モノクロ写真は、図像の三層構造を説明するのに便利ではあるが、記録として以外は芸術的に殆どゼロである。「知覚に基づく想像(イリュージョン)」という絵画の本質は、写真ではうかがい知れない広い射程をもっている。

「マチスは何故最後まで具象にとどまったか」という問いを掲げておいた。ここでもうひとつの問いをあげておく。

写真はなぜつまらないか。このことを理解出来れば、絵画の面白さも理解できる。


『美術評論とはなにか』⑦()
2011.05.04[Wed] Post 22:51  CO:2  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

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勉強させていただいております。およろしければ、質問させてください。
ミュラー・リヤー錯視や二つに交わる線分の間に平行線を入れると、上の線分が長く見える、ポンゾ錯視はご存知だと思いますが、この同じ長さの線分が違った長さに見えるのは知覚でしょうか、それとも知覚による想像でしょうか、あるいはイリュージョンでしょうか。
よろしくお願いします。
2011.04.30[Sat]  投稿者:岡田萬治金箔美術/岡田武  編集  Top▲

Re: No Subject

岡田さん 適切な質問ありがとうございます。ブログに書きます。
2011.05.04[Wed]  投稿者: 安積 桂  編集  Top▲

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