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〔4〕美術評論とはなにか:小林正人の美術とアート

「ライト・ペインティング」についての評論を二つ見つけた。一つは、[TOKYO ART BEAT]にシュウゴアーツの『小林正人ライト・ペインティング』展(2007年)の案内、もうひとつは、古谷利裕のこのシュウゴアーツの展覧会評だ。

ART BEATの方は展覧会案内だから、小林のはなばなしい画歴が書かれている。Light Paintingの箇所を引用

展覧会は新作の「Light Painting」シリーズで構成されます。小林は実態のない光という存在を、絵画として表現することに挑み続けてきました。新作のLight Paintingでは光を題材として捉えるのではなく、光そのものを抽象的に絵画という物質として出現させた、画期的な作品群といえます。美しい銀色の絵画によって構成される空間は、訪れる人々の気配と呼応し、生き生きと輝きを増します。(強調安積)


太字のところの後半が、意味不明だが、たぶん、光をレンブラントやルドンのように描くのではなく、絵画の物理的表面で反射させていることをいっているのだろう。これは、銀色の絵具で描いた抽象画の表面に乱反射させているので、なにやら、「生き生きと輝きを増して」いるように見えるけれど、現象学的に見れば、ツヤのある古典名画に照明の明かりが反射していることと同じことなのだ。もちろん、光の反射によって、絵画の物理的表面が露呈する。

古谷利裕は小林の光については、「手で光をつかむ」と言っている。光を手で掴むって、そりゃ無理だろうと茶化したくなるが、手でキャンバスを銀のメタリックに塗りながら、同時にキャンバスを枠に貼り付けていくプロセスのことを「手で光をつかむ」と言っているらしい。出来上がった作品を見ても、「描く」と「張る」のプロセスが見えるわけではないが、未完成な外見は、たしかに、作品制作のプロセスを暗示している。

古谷利裕は、また、「歪んだ(というより解体された)フレームや、波打つ画布は、(・・・途中省略・・・)支持体を壊滅的なまでに歪ませ、結果として絵画をどこまでも解体して「物」に近づける。」とも言っているのだが、「絵画を見ること」と「物を見ること」の違い、ひいては、「描かれた光」とキャンバス表面に反射した「実在の光」の違いについて触れていないので、たとえフォーマリズム風の視点があるとしても、古谷氏の小林論はたんなる修辞に終わっている。

小林正人は、結局のところ「論じやすい作家」であり、論じやすいのは、小林が「語る作家」「見せる作家」だからだ。藤枝晃雄の『抽象の生成』(『現代芸術の彼岸』p220)から引用。

芸術について語る作家と語らない作家がいるように、プロセスを見せる作家と見せない作家がいる。語る作家、見せる作家、これもまた美術史にとって(とくに説明が容易とはいえぬ抽象芸術においては)好都合な存在である。

本江邦夫の小林正人論(『現代日本絵画』)は、まさにそんな美術評論の代表で、小林の作品を論じているというより、小林の語っていることについて語る美術評論になっている。さいわい、本江氏は小林正人の言葉を沢山引用しているので、その幾つかを孫引きしよう。

最初にある支持体の面に画面が乗っかって、一本の線をひけば、支持体と画面と最低二つの面ができてしまう。絵画が単体ではないんです。支持体の分が、どうしても一層多くなる。僕は、その支持体をなくして、画面だけがパアッとある、そういう存在の絵画を作り出したかったんです。抽象画とか具象画というのではなく、絵画をものとして抽象に存在させたい。言い換えれば、存在することで少しも失墜していない絵画。


もちろん、明るさと光についての言葉がある。

「絵画の子はピュアーアートの空間に出来た《絵画=空》の子で、明るさでできている」 「この明るさは光りとはちがう」 「光は神々しくとも基本的に人間くさい」 「光の中に住み、光を呼吸し、食べながら製作する情熱を、たぶんほとんど光からもらっている。」 「そこがたぶん『空き地』(ハイデッガーのLichtungの訳語らしい)」 「明るさというのはそこで初めて眼に見えるようになる絵画のイデーのことで、絵画になろうとする集まり〔のこと〕だ。」


本江邦夫は、小林の作品を見ることなく、小林の言葉を解釈し、ピエール・ルヴェルディの詩やエミール・ゾラの『作品』を引用し、 ハイデッカーやアリストテレスやプランの哲学に触れながら、文学的哲学的修辞を連ねていく。古谷利裕も、ひとまずは、フォーマリズムの視点があるけれど、作家の言葉を踏まえている点では、本江邦夫と同じである。

小林は、一方では、比喩や象徴を多用しながら哲学的な絵画論を述べ、他方では、絵画の「本質」である平面性やキャンバスの矩形や図像のイリュージョンを破壊するプロセスを見せることで、評論家が論じやすい作家になっている。これがすべて小林のプロモーションの戦略とは思わない。そこには岡崎乾二郎にはない、たしかな技術に基づいた批評性があることは認めなければならない。

しかし、絵画とはあくまでイリュージョンだと思う私には、小林正人のより過激になった近作は、リテラルな知覚の対象であるガラクタにみえるのだ。

つづく                                                                                         
2011.04.13[Wed] Post 00:41  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

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