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《Shaft of Sunlight》と《中心集中》 辰野登恵子論④

辰野登恵子の色彩と空間の閉鎖性を理解するには、マティスの開放的な作品を見れば、面倒な理屈はいらない。それで、《金魚とパレット》や《赤い部屋》をふくめて適当な作品がないか、MoMAの『アンリ・マティス回顧展』(92/93)のカタログをめくっていたら、《Shaft of Sunlight  the Woods of Trivaux》という作品が目についた。

注意をひいたのは、作品そのものではなく、「Shaft of Sunlight」というタイトルの方だった。真ん中の白い帯が「Shaft of Sunligh」ということらしい。そう言われて、はじめて、その絵がなにを描いているか判った。それと同時に、辰野登恵子の《中心集中》の上から棚に差し込む一条の光を思い出した。「光とペンキ」の判別がつかない例の辰野登恵子のトリックのことだ。


《中心集中》Shaft of Sunlight

  左=《中心集中》2010年
             辰野登恵子
           


  右=《Shaft of Sunlight 》
            1917年 Matisse
                






辰野がマティスから着想を得たかどうかは判らないが、両方共、光と影の方向がズレていて、光学の論理に反している。

辰野の方は実はペンキと考えれば、光学に反しているということはないのだけれど、どうしても光と影に見えてしまうところがトリックなのだ。それに、辰野の《中心集中》はfigurativeなのだが、タイトルは抽象的である。それに比べマティスの方はタイトルが「一筋の陽の光 トリヴォの森」とあるのだから、風景画であり、白い帯が光で、黒い帯が影である。

マティスは三年前に《金魚とパレット》で、ピカソの「閉じられたキュビスム」を開かれたキュビスムにしようと試みている。その絵は、グリーンバーグのいう「プリズム的ではない色」、黒と白を使っているのだけれど、基本的には幾何学的造形である。それにも拘わらず、黒い帯を背景に立体的な金魚鉢と赤黄緑の三色が配置されて、開放的な色彩や平面になっている。

金魚とパレット《金魚とパレット》とくらべると、《一条の陽光 トリヴォの森》はより平面的な描写になっており、色彩も黒と白の他に緑と茶のキュビスムの色を使っている。逆光の木立の奥行きと、光の白と影の黒、それと植物の緑と土の茶の平面が、空間の豊なイリュージョンを生み出している。

影の方向が時間と共に変わっていくのは、国立新美術館の『没後120年 ゴッホ展』で見た《秋のポプラ並木》(1884年)にもあったけれど、あの影は、時間の経過で、太陽の方向が変わったものだ。ところが、マチスのこの絵は、時間の経過ではなく、キュビスムの多視点であり、時間ではなく空間の問題なのだ。

キュビスムと平面性の問題はここでは論じない。《中心集中》がなぜ《Shaft of Sunlight 》と比べて窮屈に感じるのか、理屈ではなく、二つの絵を見て感じ取って欲しい。もちろん、ほかの辰野の《新作》とも比較してみて欲しい。そうすれば、《中心集中》が自己に閉じこもって、空間が閉鎖的に見える主な原因は、立体造形を描いているからだと判る。

もっとハッキリした例をあげる。まず、辰野登恵子のHPで以下の二枚の絵を見て欲しい。http://www.tatsunotoeko.com/work.html#


2005年《Bluespacel》          
2007年《March-22-2-7》

《Bluespacel》は更衣室の棚のようにみえるけれど、立体グリッドだ。グリッドについては、ロザリンド・クラウスが、なにやら荒唐無稽な理論を展開している現代美術のキーワードだが、あれは平面的な格子のことだった。比較するために平面的なグリッドの例としてKleeの《隣の家へ》をあげる。(注1)

klee 

(以前のファイルを流用したので、余計なものが付いてきた。《活気づいたものたち》は無視してして下さい。クレーには、他にもっと良いグリッドの例があるのだけれど、《隣の家へ》の方が空間のイリュージョンが分かりやすい。)

辰野の立体グリッドとクレーの平面グリッドでは、どちらに豊な空間があるかは明白だ。平面グリッドのほうが空間のイリュージョンが豊かなのだ。立体グリッドはリテラルな三次元空間を箱のなかに閉じ込めてしまうので、空間の広がりに乏しい。

リテラルな空間というのは、知覚された空間ということで、たとえばジャッドの箱の空間はリテラルな空間である。同じように辰野の立体グリッドの箱も「リテラルな空間」の図像である。絵画に描かれた立体物も、知覚されたものではないけれど、「知覚された立体物」を再現している限り、リテラルな空間のイリュージョンを生み出している。(注2)

辰野は空間と平面にこだわりを持つモダニストだと言われている。確かに《Bluespacel》を見れば、奥行きは浅く、背景は「舞台のカーテン」の近くまでせり出しているけれど、その浅い奥行の空間が四角い巣室によって区切られ、分離されてしまっている。モダニズムはリテラルな遠近法の実の空間を解体し、平面性によってよって、イリュージョンの虚の空間を豊にしたとしたとするなら、辰野登恵子はむしろ反モダニストになってしまはないか。

ミニマリズムから抽象表現主義へ、そして現在の立体造形抽象主義へとモダニズムに逆行してきた辰野が、このことに気づいていないわけはないことは、タイトルの「Bluespacel」(注3)からも読み取れる。辰野は閉塞した空間を開放するためにいろいろな試みをしている。背板をつけない。格子を不揃いにする。二つ前後に並べて、後ろの棚が見えるようにする。棚板を傾げる。ついには側板を取り払う。しかし、徒労である。立体は、たとえそれが描かれたものでも、リテラルネスを強めてしまう。

そして、光のトリックを使った最新作の《中心集中》になる。非物質的な光を使っているからだろう、この《中心集中》は空間を開放することに成功しているようにみえる。しかし、トリックに気が付けば、依然として、そこにはリテラルな空間が支配している。

つづく   次回は「モダニズムの平面化は還元主義ではない」を予定しています。





注1:《隣の家へ》については『パウル・クレー』の記事へ

注2:話が錯綜してしまったけれど、簡単にまとめておくと、彫刻などの立体物はイリュージョンを持ちにくいことはすでに何度もいった。しかし、絵に描いた立体物が立体的に見えるのはもちろん知覚ではなく、イリュージョンだ。しかし、「立体物の知覚」のイリュージョン(想像)なのだ。そういうわけで、知覚された立体物も、絵に描いた立体物も、同じように「知覚されたリテラルな実在物」という性質を持っている。知覚された立体はpresent(現存)しており、描かれた立体はrepresent(再現)されている。
 リアリズムというのは知覚された事物を再現することであり、マネの再現性もダリの再現性も同じリアリズムである。そういう意味もあって、マネは技法だけ優れた凡庸な画家ではないかという疑いを捨てきれない。究極のリアリズムは写真画像なのだ。『マネ論②』を参照

注3:「spacel」はspace+cellの誤植か、それともセル画のcelか判らない。





2011.01.29[Sat] Post 19:18  CO:0  TB:0  ・辰野登恵子  Top▲

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