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「両眼視差」と「首振り立体視」 【首振り立体視③】

【首振り立体視①】
【首振り立体視②】



知覚世界は三次元だ。これは両眼視差によるものだという。たしかに片目を閉じると遠近感は減少する。

両眼視差を利用したものにステレオ写真がある。ステレオ写真は立体的に見えるけれど、どこか薄ペラだ。ちょうど「ポップアップ絵本」のように、開くとキリンとか象が立ち上がる絵本だ。

それは、前後に重なった二つの対象の距離が比較的離れていて、左目と右目の写真で、重なり具合のズレがハッキリしているところが強調されるからだ。昔のステレオ写真はクラウスも指摘するように、ことさらにそういう景色を選んでステレオ写真を撮っている。

それなら、ステレオ写真と現実の知覚とどこが違うのか。ステレオ写真にはない知覚世界の生き生きとした空間感覚は何処から来るのか。いろいろあるだろうが、重要なのは身体性である。

ステレオ写真では我々の身体は、写真の図像世界の外にある。それに対して、知覚では、我々の身体は知覚世界の中に嵌めこまれている。だから、知覚では頭を動かすと今まで見えていたところが見えなくなり、見えなかったところが見えてくる。写真ではそうはならない。写真で知覚しているのは印画紙で、図像空間はイリュージョン空間なのだ。我々の身体空間と物理的図像(印画紙)の空間は連続だが、写真図像のイリュージョン空間とは切り離されている。

事物は射影をとして現出する。見る位置を移動すれば、今まで見えなかったところが見える。手を伸ばせばテーブルの灰皿に触れる。届かなければ、歩いて行って触ることができる。さまざまな運動感覚を伴って現れる射影を同一の事物の現れとして構成するのが知覚である。

両眼視差は空間的な視差だが、運動感覚による視差は時間的な視差だ。時間的視差は当然片目でも作用している。これは、映画と静止画を比べてみれば判る。動画も静止画も単眼視である。動画を見ているときは、われわれはカメラの視点になって、動画の世界の中に入っている。身体はカメラボディと合体している。だから、ハンドカメラが烈しく揺れると、我々は眩暈を起こし、時には嘔吐さえする。フライトシュミレーターでは運動感覚を与えるために動揺装置があり、訓練パイロットは映像世界をほとんど現実の知覚世界のごとく体験する。

ところが、突然、動画がとまったらどうだろう。観客は映画の世界から観客席に放り出され、スクリーンの矩形が現れ、画質が低下する。このことで判るように、キネステーゼは知覚でも動画でも作用している。知覚世界は空間的視差と時間的視差の両方によって生きた空間を生み出しているとひとまずは結論づけることができる。

ところがここで奇妙なことが起こる。単眼視の動画ではキネステーゼが働いて、映像が現実世界のように体験する(ヴァーチャル・リアリティ)のに、両眼視の立体動画では、現実感覚よりも、むしろステレオ写真のような錯視の感覚が強まる。『アバター』を見た観客の多くが気分が悪くなったのは当然である。

最後に写真を考えて見よう。写真には、両眼視差もキネステーゼもない。しかし、奥行きも立体感もある。三次元の空間がある。これが遠近法であり、遠くのものは小さく見えるとか、重なっているものは、隠している方が手前にあるとか、他にも、陰影法や明暗法などもある。

われわれは平面的な網膜像を三次元に変換するアルゴリズムを進化させてきた。そのための重要なデータが両眼視差や運動感覚(キネステーゼ)なのだが、それだけではなく、眼球のレンズのピントやボケを調節する筋肉の感覚や、あるいは、自然の風景や事物の形、大きさ、色などの経験もフィードバックされている。(注1)

画家は知覚世界を平面的に見ることによって、遠近法を学んだ。それを光学的にやったのが写真だ。だから、写真は三次元に見える。首を振ると、間違って知覚のアルゴリズムが作動することもある。手前の事物と後ろの事物がチラチラと反対の方向に動き、あたかも知覚しているが如き空間のイリュージョンが生じる。

東京都庭園美術館の『ロシア構成主義のまなざし』(01年5月)で見たロトチェンコの写真は、陰影がハッキリとしていることもあるのだろう、となりの作品に視線をうつすときに、首振り立体視がしきりと見えたけれど、写真も絵と同じ図像なのだから、条件がそろえば、首振り立体視が現れても不思議はない。

話が少し錯綜したが、たしかに対象(獲物)までの距離を測るのには両眼視差が一番有効だけれど、それだけでは、生きた空間を体験することはできない。ステレオ写真よりも一枚の写真の方がリアルだし、『アバター』よりも小津安二郎の『東京物語』に生きた空間がある。

我々は四つの空間を区別できる。知覚空間、錯視空間、絵画空間、想像空間の四つだ。四つは截然と分かれているわけではないけれど、すべての根源は知覚である。

この中で、絵画がいちばん誤解され、議論が混乱している。絵画意識は知覚に基づいた想像意識だ。文字意識も知覚に基づいている。両者とも、知覚されたものが知覚されていないものを意味している点で記号の仲間だ。ただ、絵は類似によって、文字は弁別的差異のシステムであり、学習によって指示対象を意味する。

そういうわけで、文字は、金釘流でも丸文字でも「りんご」は「りんご」を意味する。りんごの絵も、カラヴァッジョとセザンヌでは同じリンゴを意味する。アイコン記号(絵文字)ならたしかにそうだ。リンゴとブドウが区別出来れば済む。しかし、絵画はそうではない。如何に描かれているかが重要だ。カラバッジョのリンゴとセザンヌのリンゴは別のリンゴなのだ。

類似によって対象を意味する点では、絵文字も絵もおなじだが、絵文字は代用(stand for)だけれど、絵は代用ではない。絵文字は思い浮かべても同じ意味を指示するけれど、絵はシニフィアンではない。思い浮かべても絵画の十全な意味はあらわれない。現れるのは、カラバッジョのリンゴとセザンヌのリンゴの特徴だけだ。そういう意味では絵は記号性が弱いのだ。

小説を読んでいて、文字のことは忘れ、ストーリーを辿っていることに気づくことがあるだろう。われわれは文字をみているのではなく、意味を見ている。文字は透明な記号である。

それに対して、絵は意味の代用ではないから、絵を見続けなければならない。図像学というのは絵をデノテーションやコノテーションの意味に還元し、絵画をイラストレーションにしようという間違ったこころみだ。

文字意識も図像意識も、共に知覚したものを中和変容し、意味を志向する作用だ。文字意識は紙の上のインクのシミを超えて、意味を志向し、絵画は平面上の線や色を超えて、イリュージョンを見ている。ともに、知覚しているものの存在措定を宙ぶらりんにしている。

それなら、なぜ絵画は見続けなければならないのか。これは、写真と比べてみればよくわかる。写真は物理的図像、図像客体、そしてイリュージョンの図像主題を超えて、そのまま外部の被写体にまで一直線に志向する。もちろん印画紙や階調の具合、モデルの灰色の肌に注意を向けることができるが、それは無理矢理であって、結局は実在のモデルを見てしまう。写真は文字(言葉)と同じように透明なメディウムだ。

もちろん、古大家たちの再現的な絵画は、写真と同じように、外部の指示対象を直線的に志向する。絵画の三層構造を貫いて主題に達する。それにたいして、モダニズムの絵画は、物理的絵画や図像客体の層を隠そうとはしない。絵具やキャンバス表面の平面性がみえるのだ。

マチスに《赤い部屋》《Harmony in Red》という作品がある。壁紙とテーブルクロスが赤くて同じ花模様で、テーブルは壁と同じように垂直にキャンバス表面に重なって見える。左の窓から外の緑色の景色が見える。しかしこの景色も、橙色の窓枠が額縁の役割をして、まったくの風景画に見える。ということは、奥行きの深いはずの景色が、風景画になって、赤い壁とおなじ平面にせり上がってくる。

これは錯覚ではなく、図像客体と図像主題のあいだの弁証法的緊張関係だ。たとえば、テーブル・トップは大抵は水平だから、ひとまずは、水平に見える。しかし、テーブルクロスが壁紙とおなじ模様なので、テーブル・トップは壁紙と同じように垂直に見える。窓外の景色についても同じことが言える。

以上のことから二つの暫定的な結論を得ることができる。

1)絵画は、知覚に基づく想像なのだから、絵画の真理は、絵画を見ている時だけ現れる。俳句などの言葉の芸術は、頭の中で作れるが、絵画は頭の中で描くことはできない。

2)マチスの《Harmony in Red》のイリュージョンは、錯視ではなく、具象的対象のpictorial illusionである。オップアートのチラツキや、首振り立体視は錯視であって、マチスの絵画的イリュージョンとは区別しなければならない。優れた画家は、クレーにしてもマチスにしても、みんな、具象画に留まった。わたしはロスコも具象ではないかと思っている。

これで、ひとまずこの小論を終りにする。




注1:ついでに、上で述べたボケについて書いておくと、望遠レンズで背景をぼかしたポートレイト写真の人物が、浮き出て見えることはよく知られている。ボケた対象は人物よりも遠くにあるため、ピントがあっていないと目が判断するからだ。

【補】・遠景が絵のように見えるのは、両眼視差が働かなくなるからだ。
   ・片目は、両目よりハッキリと首振り立体視ができる。
2010.12.27[Mon] Post 01:50  CO:0  TB:0  絵画の現象学  Top▲

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