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『絵画論を超えて』(尾崎信一郎著)を読む(3)(『絵画の現象学』)

これまでのことを、まとめておくと、現代美術は、主題ではなく作品そのもの、すなわち、リンゴやヌードのイリュージョンではなく、知覚された作品そのものが意味を持つ芸術だということだ。

主題は作品の外部にあるけれど、作品そのものの構造は作品の内部にあるゆえに自己参照ということになる。作品のイリュージョン(主題)ではなく、作品そのものが意味を持つのは、知覚された作品が、たんなる物質ではなく、それが構造を持っているからだ。

しかし、アナログ記号の絵画が、デジタル記号の言語と同じ統辞論的構造を持つことはできない。というのは、言語にはアルファベットがあるが、絵画にはアルファベットのような綴りがないという根本的な違いがあるからだ。(注1)

いずれにしろ、尾崎が作品の構造というとき、キャンバス上の絵具の配置やキャンバスのサイズやマティエールなどを指すらしいのだが、それが正確に何を意味するのかはまだわからない。

というわけで、現代美術の「自己言及」とは、作品の主題(イリュージョン)であるリンゴや人物や風景など外部指示ではなく、知覚された図像記号そのものが作品になるということである。

まとめておくといったけれど、依然として絵画における「自己参照」や「構造」、そしてとりわけ「統辞論的構造」が正確に何をいみするかは曖昧なままである。

ともかく、第二節の「モダニズム美術と純粋化」を読んでみよう。ここでも、分からないところがあるけれど、議論はグリーンバーグのフォーマリズムとモダニズムを巡って行われる。

フォーマリズムというのは、何が描かれているかではなく、いかに描かれているかに注意を向ける鑑賞あるいは美術批評の態度のことだから、もちろん古典大家の作品についても言えるわけだが、彼らが、絵具によって絵具を隠したのだが、最初のモダニストと言われるマネは、むしろ絵具の物質性や絵画表面性を露呈させたのである。

古典大家もマネも自然的対象を描いたのであるが、マネ以降、絵画は何が描かれているかの主題よりも、いかに描かれているかの形式に価値がおかれるようになる。もちろんフォーマリズムというのはあくまでも具象画の範囲に留まっていることになる。

グリーンバーグには、フォーマリズムとは本来別の範疇であるはずのモダニズムがある。ファーマリズムというのは批評・鑑賞の理論であり、モダニズムは美術史の理論である。このフォーマリズムの視点から近代絵画を眺めれば、近代絵画は絵画の本質へと純粋化することだったとグリーンバーグはいう。絵画の本質的ではない再現性や空間性を排除していくと、さいごに絵画の本質として平面性が残る。

尾崎はここで絵画の平面性について触れているわけではないが、このグリーンバーグの平面性については誤解されているようなのでちょっと注意しておくと、この平面性は知覚された平面性ではない。なぜなら、どんな具象的絵画もイリュージョンの背後にキャンバスや壁の物理的平面があるからだ。

グリーンバーグのいうモダニズムの平面性とは、奥行きのイリュージョンがどんどん浅くなり、主題の事物の立体性が弱くなり、次第に空間のイリュージョンが浅くなり、絵画表面に近づいて平面的になっていったということであり、イリュージョンがなくなったということではない。だからこそ、グリーンバーグは白いキャンバスも壁に掛ければ絵画になりうるというのは、白いキャンバスでもイリュージョンを持ちうるということである。イリュージョンがない平面が絵画の本質だと言っているわけではない。グリーンバーグは『モダニズムの絵画』(1978年)のなかで以下のように言っている。

モダニズムは、絵画が絵画であることをやめて任意の物体になってしまう手前ギリギリまで際限なくこれらの制限的条件を押し退ける得ることを気づいてきた。


というわけで、グリーンバーグはイリュージョンがない平面が絵画だと言っているわけではない。グリーンバーグがステラやジャッドのミニマリズムを評価しなかったのは彼らの作品がイリュージョンのない「任意の物体」だったからだ。クラウスが、フォーマリストのグリーバーグがステラなどを評価しないのは可笑しいと批判したのは的はずれである。

というわけで、われわれは、モダニズム絵画の純粋還元を理解するためには、「意味論的情報と統辞論的情報」や「外部参照と自己参照」、あるいは「具象画と抽象画」などの対立軸だけではなく、「知覚(物体)と想像(イリュージョン)」の対立軸を考慮に入れておかなければならない。

つづく


注1:『世界制作の方法』ネルソン・グットマン
2010.10.10[Sun] Post 01:40  CO:0  TB:0  絵画論を超えて  Top▲

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