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『絵画論を超えて』(尾崎信一郎著)を読む(2)(『絵画の現象学』)

第一部第一章「現代美術と自己参照」

第一節「作品の二つの意味」

ここで、尾崎は戦後美術を「自己参照」というキー・ワードで考えてみようとする。自己参照はセルフ・リファレンス(self-reference)自己言及のことであり、現代芸術の美学で使われる言葉で、『美術手帖』の評論でも目にすることがある。言語学や数学では明確な定義があるけれど、絵画の自己言及性については、絵を見ずに絵を論じる美術評論家が付け焼刃で書くから、混乱するばかりだ。

さしあたって、以下のように理解しておけばいいだろう。絵画はリンゴや人物や風景に言及している。それに対して自己参照をしている絵画というのは、同語反復だが、自分自身を主題にしている絵画ということだ。リンゴの絵ではなく、「絵の絵」と言えるかもしれない。しかし、これだけでは、自己参照の絵とはいえない。古典大家の「画中画」は、自分自身ではなく、他の絵を描いているのだから、自己言及とは言えない。それにくらべ、セザンヌやマチスの「アトリエ」を描いた絵は、「絵についての絵」という自己言及性があるように思える。それは、たぶん、平面性という絵画の「本質」に言及しているからではないか。(これは、いい加減推測なので無視してください)

ともかく、そういうわけで、尾崎はまず作品の意味を意味論的情報と統辞論的情報の二つに分ける。意味論と統辞論という言語学の二つの領域を記号学として一般化し、図像記号に適用しようというのだ。言語も図像も意味を表わすのはおなじだけれど、図像は類似による、いわばアナログ記号であり、言語は弁別的差異によるデジタル記号なのだ。図像には言語の文法のようなものがあるのか疑問である。

尾崎は、「統辞論的情報」によって絵画の何を意味するのだろうか。彼は,言う。「たとえば、肖像画が描かれた人物の情報と共にカンヴァスの上に絵具がいかに配置されているか、あるいはサイズやマティエールについての情報をも内包している」、これが統辞論的情報だというのだ。

この説明だけでは、統辞論的情報というのは、内容にたいする形式とも考えられるし、また、現象学からみれば、主題ではなく、色や線ということになる。尾崎はこれを統辞論的情報だというのだ。

今世紀を通じて作品は何かの事物なり概念の表象から、作品それ自体の構造についての言及へとその意味機能をゆるやかに変容させたのである。この事態をここでは作品の自己参照と呼ぶこととしよう。


分かりにくい文章だ。「作品それ自体の構造についての言及」が「自己言及」だというのはどういう意味だろうか。そもそも、構造とか自己言及という言葉がわかりにくい。

文字と絵はとても似た記号だ。文字も絵も知覚して、そこに意味を見る。「リンゴ」という文字を見て、その言葉の意味がリンゴであることを理解する。同じようにリンゴの絵を見て、そこに描かれている図像の意味がリンゴであることを理解する。共に知覚に基づく意味志向だ。この意味志向がレファランス(言及)といわれる。

意味志向が自己自身に向かうということは、シニフィエではなくシニフィアンに向かうということであり、このあたりの理屈が必ずしも明確ではない。記号というのは、ある知覚されているものが知覚されてはいない意味やイメージの代わりをする(stand for)ものなのだから、知覚されている記号そのものに言及するということは、それが何ものの代わりもしていない、すなわち記号ではないと言うことになる。記号でなければ、レファレンス(言及)とは言えないわけだし、いわんや自己言及がいったい何を意味するかわからなくなる。

文における自己言及というのは、たとえば『「クレタ人は嘘つきである」とクレタ人が言った。』というような嘘付きのパラドックスが生じるような文や、ある小説の主人公が書いている小説がその小説そのものだというような場合が自己言及といわれる。これは明らかに意味論的な構造の話であって、統辞論的な構造の問題ではない。

さて、何度も指摘している通り、意味論と統辞論はもともと言語学の二つの領域なのだが、言語学を記号学として一般化し、それを図像(絵画)記号に適用したのであり、同じ記号でも、弁別的差異のシステムを利用した恣意的な言語についての記号学を、類似による図像記号にそのまま適用することはできない。(注1)

ひとまず、自己参照というのは、記号が意味するもの、あるいは代わりをするものではなく、記号そのもの、知覚しているインクのシミである文字やキャンバス上の線や色彩すなわち物理的絵画に言及することになる。

余計に混乱させてしまったけれども、ともかく絵画にいったい統辞論的な構造があるのかどうか検討してみなければならない。

つづく


注1:言語の統辞論的構造は意味に導かれて発見される。













2010.10.01[Fri] Post 00:57  CO:0  TB:0  絵画論を超えて  Top▲

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