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山田正亮のストライプ絵画

山田正亮の「ストライプ絵画」を検索すると、いろいろな批評にヒットする。

わたしは、前回の投稿で、山田正亮のストライプ絵画は、おしゃれでセンスが良いけれど、ところどころに絵具が垂れたようなところはわざとらしくて凡庸だと言うようなことを書いた。ところが、そこが素晴らしいという評者もいる。

たとえば山田正亮の絵を「多彩色のストライプの絵画」と簡潔にまとめられてしまう違和感から、逆に我々は彼の絵を目にしているとき実際に見ているものは単純な「ストライプ」ではなく、色層間を縦断する絵具の滴りであり、ストライプの線の微細な震えであったことに気付く。(drawinghell 水野亮)


絵具の滴りは、ストライプの微細な震えだという。なるほど、そうかもしれない。印象批評ではなく、技法の分析もある。

あらかじめ区切られたグリッドの内部を埋めるように動き、所々で境界線を侵犯し、隣り合った領域と混じり合い、結合し、大きく移動し、また留まる。といった出来事すべてが、想定どおりの見事な演出で、完全な事後の出来事として再現されている感じで、たとえば素早い筆致で引かれたブラッシュストロークの輪郭だけを丁寧に掘り起こしていくような、あるいは反対にその周囲からじっくり時間をかけて細密筆で攻めていくような、そういう安定した作業がところどころに介在しているようにも思われる。(Ryota Sakanaka


絵具のはみ出しを「境界線の侵犯」とは大袈裟なきもする。緻密な分析ではあるけれど、それがどんな効果をあげているかは、あまり作品をみていない私には判断することはできない。

もちろん積極的な評価をしない評家もいる。

●この展示(府中市美術館)である程度まとめて観ることが出来て改めて思ったのは、60年代の「Wark C」のシリーズが異様な迫力と魅力を持っているということと、しかしその迫力は必ずしも「絵画として良いもの」とは思えない、ということだ。この、重たく 重なる横ストライプの作品では、視線の動きが著しく限定され、その上で色彩による強い明滅の効果が経験される。しかしこれは、(抑制された色彩の趣味に よって緩和されているとはいえ)椅子に縛り付けられて、目の前のライトの明滅を無理矢理に見せられているような感じで、絵画的な(その中で「目」が動ける ような)「空間」は押しつぶされてしまっているように思う。不透明な 絵の具の重なりによる、ざらつくような視覚的な手応え、視覚による強い触感のようなものは喚起され、それはとても魅力的なのだが。これらの作品は、ストラ イプというよりも、地面の断面である「地層」のような作品で、そのような意味で(重力によって)圧縮されたような迫力はあるが、その迫力は、重力によって 押しつぶされるような圧迫感と共にあるものなのだ。この不透明な色彩の重なりによる圧迫されるような迫力は、もしかするとこれらの作品が制作された60年代の時代の空気と関係があるのかも知れず、さらに、(今回の展示 では観られないが)80年代に制作された作品が、抑制がやや外されたような軽やかなとも、浮遊したとも言えるような感覚をもっていること(そしてサイズも 大型化したこと)などとも合わせて考えれば、一貫して「絵画の自律的な展開」を押し進めてきたと言われる作品も、その根底で実は時代の空気の影響を大きく 受けているとも言えるのではないだろうか。(「偽日記」古谷利裕)


古谷氏はオップ・アートとの知覚心理学的な類似を暗示しながらも、ストライプは地層であり、重力に押しつぶされた圧迫感があり、それは60年代という時代の反映なのだという。抽象画を象徴主義的に解釈し、それを時代背景で説明するというよくある方法だ。

さらに、松浦寿夫は山田氏の製作年疑惑を影響と類似の問題として論じる。

そして、何よりも、彼の作品が時として、フランク・ステラやアド・ラインハートの作品との同時代的な類似性を否応なく帯びてしまうという事実に注目しなければならない。それも、影響関係といった視点からではなく、不意の一致として注目すべきである。類似性の拒絶、ほとんど神経症的なまでのこの拒絶の身振り は、美術史の空間への自己登録の競争的な欲望の発露にすぎないのだが、それは、美術史の戸籍登録的な記述の打ち立てる影響関係という網の目の中でのプライ オリティーの確保がほとんど唯一の芸術的な価値の指標を構成するかのような幻想、市場の論理と連関しつつ肥大化しつつある幻想の一つの局面にすぎない。だが,はたしてこの類似性とは、なんとしても排除されるべき刻印なのだろうか。(「水声通信」松浦寿夫)


なんだか蓮實風文体だけど、類似を影響関係ではなく、「不意の一致」というオカルトまがいの言葉で説明するのは、影響関係なら制作年代が重要な意味を持ってくるからだ。そして「神経症的なまでの類似性の拒絶」というのは、日本人作家の外国人作家との類似を指摘してやまない藤枝晃雄の批判なのだ。

絵画的思考の類似性が無関係な場所で生起することはつねにありえることである。そしてこの類似性の突発的な出現を、影響関係といった語彙とは別の語彙で語る方法こそが発見されるべきであって、これらの突発的な類似性の生起こそがあえていえば絵画の奇跡に他ならない。(同上)

松浦氏はついには「絵画の奇跡」などという文学的修辞に逃げこむ。

藤枝氏は山田正亮の絵画が「演繹的な方法」によって成立していると言う。演繹的というのは既にある絵画理論に基づいて制作するということであり、類似は「不意の一致」ではなく、理論の影響あるいは模倣応用の結果ということだ。藤枝氏は模倣や類似が悪いと言っているのではない。それが何の質も生み出さない作品を批判している。藤枝晃雄は「質」について以下のように述べている。

本来、質は引用や模倣を消滅させてゆくはずなのに、それが不在であるとき、われわれは引用や模倣ではなく、神のみぞ知る非創造としての類似とそこでの差異にのみ注目を注ぐことになる。(『現代芸術の不満』p25強調安積)


残念なことに、わたしは、質を論じるほど山田正亮の作品を多く見ていない。秋にはお別れ会をするという。しかし、回顧展が開催されることは、たぶんないだろう。なんだかこのままウヤムヤになりそうだ。



* 「模倣、引用、影響関係」については別に論じなければならない。

2010.07.26[Mon] Post 16:47  CO:0  TB:0  -山田正亮  Top▲

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