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絵画の現象学

これはHP『絵画の現象学』から引越してきたものです。HPは面倒なのでいずれ閉鎖します。(2010年7月7日)


以下は、以前に書いた「写真の現象学」から抜粋したものです。
フッサールは、ここではモノクロ写真を例に図像意識の記述をしています。写真 はある意味で最も純粋な図像なので、フッサールの分析も少し単純化されています。ここでは、図像意識すなわち絵を見る視線が三層構造になっていることを理 解すれば、十分でしょう。
*     *     *



               『絵画の現象学』


第一章 フッサールの図像意識の分析

 フッサールの『想像、写像意識、想起』(PHANTASIE,BILDBEWUSSTSEIN,ERINNERUNG1898-1925 HUSSERLIANA BAND23)に沿って、写像意識、すなわち写真を含めた図像意識についての現象学的分析をしておく。
 まず、物理的な事物としての絵(Das physische Bild)である。これは絵具が塗られ、額縁に納められたキャンバス布、あるいは印刷された紙である。これは破いたり、燃やしたり、壁に掛けたりできる事物である。次に一定の色や形によって描かれた三次元の画像であり、そこに現れた像客体(Das Bildobjekt)である。そして、三番目にはその像客体によって表象される像主体(Das Bildsujet)である。この二つは混同されてはならず、像客体は表象するもの、模写するもので、像主体は像客体によって表象されたもの、模写されたものである。客体はいわゆるそこに描かれている図像そのものであり、主体はその図像によって表象されているサブジェクト、すなわちその絵画の主題ということになる。
 この像客体と像主体ははっきりと別ものであり、像客体は類似性によって像主体を再現表象する。我々はそこに描かれ、現出している図像によって、その図像に似てはいるけれど、多かれ少なかれ図像とは異なる事物をみているのだ。
 例えば、子供の写真があるとする。それは物理的写真としては、光沢がある薄い紙で、アルバムに貼ったり、破り捨てることができる。そしてその表面に描かれた図像は、五センチぐらいのおおきさの子供で、皮膚は灰色である。この小さな白から黒の階調で現出している像客体としての子供の図像、すなわち模像再現する図像は、模像再現される実在の対象、すなわち生身の子供を再現表出している。そして、この像客体によって模像再現されている子供は五センチではなく、一メートル数十センチのほっぺたが赤い、血色が良い金髪の子供なのである。
 色彩に注意をむければ、まず紙のうえに配分された色彩がある。写真では白から黒へのトーンの変化で、照明の具合や印画紙の表面の反射等でさまざまに変化する。しかし、描かれた図像の色としては、灰色の濃淡は印画紙の表面に配分された平面的な色ではなく、三次元の立体的な子供の色として現象してくるのだ。しかし、これはあくまでも図像として子供の色であり、この写真を見て、そこに写っている子供が人形のように小さく、肌が死人のように灰色だとは誰も思わない。普通にわれわれが写真を見ているときは、そのような灰色の子供を見ているのではなく、この灰色の図像によって模写された実在的な子供を見ているのである。その実在的な子供は、灰色の肌をしたミニチュアではなく、頬の赤い金髪の子供なのである。
 以上をまとめると、図像は以下のようになっている。

  物理的像(Das physische Bild)→像客体(Das Bildobjekt)→像主体(Das Bildsujet)

 部屋をみまわしながら、壁や家具や窓を見る。子供の写真が、部屋の壁にピンで留めてある。何が写っているか特別注意せず、ただ、壁に写真が貼ってあるのに気付く。それが物理的像(印画紙)としての写真である。つぎに、壁に近づき、写真を見る。写真の縁は、依然として印画紙として知覚しているが、図像の部分は、印画紙ではなく、子供の像として把握されている。知覚している壁や印画紙のただ中に、立体的な子供の図像が現出している。子供の図像と印画紙が争ってはいるが、〈子供〉が圧倒的に優勢で、〈印画紙〉は背景に退いている。この抑圧の力は強く、ふたたび、写真を物理的像(印画紙)として知覚するには、印画紙を折り曲げたり、一部を隠したり、斜めから見るなどして、図像意識を壊さなくてはならない。
 このように、日常的態度で見ているのは印画紙ではなく、図像なのだが、その図像も、通常は、像客体の灰色のミニチュア(像客体)ではなく、像主体の一メートル数十センチの金髪の子供(像主体)である。物理的像と像客体が争っていたように、像客体と像主体も争っているのだが、同じように金髪の子供が優勢で、灰色の子供は押さえつけられている。しかし、灰色の子供は抹消されたわけではなく、ただ、主題化されずに、背後に退いているだけで、いぜんとして知覚されており、いつでも、灰色の子供に注意を向けることができる。
 理論的には、図像の三層は、物理的像が像客体を基礎付け、その像客体が像主題を基礎づけるという具合になっているのだが、経験的にわれわれに最初に現れるのは像主題であり、その欠如態として像客体が現れ、さらにその欠如態として物理的像が現れる。いずれにしろ、図像意識の「類似による模像再現」は一方向的なものではなく、相方向的な関係なのである。
 はじめの物理的像と像客体の関係は、印画紙の表面から三次元の象形が浮き出るといういみでは、ゲシュタルト心理学の地と図の関係に似ているが、正確には、物理的像が地で、像客体が図ということではなく、地と図が未分化な状態が物理的像で、地と図が分離し、図がはっきりと浮かび出ているのが、像客体なのである。
 つぎの像客体と像主体の関係は、物理的像と像客体の関係ほどに、排除的な関係ではない。知覚している像客体に基づいて、像主体が模写再現されるということは、灰色の子供のミニチュアの中に、実物大の金髪の子供が現出すると言うことであり、子どもの灰色の肌は知覚しているが、子どもの肌が灰色であるという断定はせずに、宙ぶらりんにしたまま、ピンクの肌の子どもを見ることである。これが、フッサールのいう図像意識の中和変容であり、類似と非類似の争いの中で、知覚している灰色のミニチュアの存在定立を抹消すること、すなわち、「見ているのに見ていない」という両義性のなかで、ピンクの肌の子ども(像主体) がおのずと現出してくることである。注意しなければならないことは、われわれは灰色の子供を見ながら、ピンクの子供を想像しているのではないということである。像客体と像主体は、同じ図像意識に内在する志向的対象であり、中和変容によって、似ているものと似ていないものがぴったりと一つに重なって (Deckung)いる。このように、意識の様態が、対象の存在を定立する知覚意識から存在非定立的な一種の想像意識に変化することが図像意識の本質であり、類似による代表像の機能と言われるものである。
 何度も繰り返しておくが、絵(paintingではなくpicture)見る意識、すなわち図像(絵画)意識は、あくまでも知覚に基づいた意識であり、知覚とは別の想像意識とは、まったく別の意識なのである。
 図像意識は、三つの層に対応して三つの独立した意識作用があるわけではなく、同じ一つの図像意識が輻輳し屈折しながら、三層を貫いている。ピントの合った写真のように、被写体(像主体)を端的に見るということは、むしろ例外で、本来、図像を見るということは、物理的像と像客体と像主体の三つを、多かれ少なかれ、同時に見ているのだ。三つの層は争いながら、あるものが優勢になれば、他のものは沈黙し、あるものが前景に出れば、他のものが背景に退くと言った具合に、相互に矛盾対立したり、あるいは密着浸透しあっている。
 図像意識の第一の変容であるゲシュタルト化の作用と、第二の変容である中立化の作用は、じつは連続した同じひとつの作用であり、どこまでが知覚意識で、どこからが中立化した図像意識なのか明確に分けることはできない。平面上の色の濃淡が、地と図に分かれ、二次元ものが三次元に見えることも、灰色の髪のミニチュアが等身大の金髪の子供に見えることも、同じ図像意識の作用である。図が地の上に浮かび上がるのは、それが幾何学的に、もっとも単純で秩序だった形だというだけではなく、われわれに親しい道具や自然物の形をしているからでもある。像客体の形態が、たとえば、身体各部位の比率や目鼻立ちが、子供らしさという経験的プレグナンツと共鳴し、大人でも赤ん坊でもなく、まさに等身大の金髪の子供のものとして立ち現れる。
 この像主体も、地から浮かび出た図なのだが、像客体と像主体の間では、類似と非類似の葛藤があり、類似しているゲシュタルトは共振し、増幅されるけれど、類似していない色は、抑圧されて、効力を失っている。肌の灰色はあいかわらず知覚されているけれど、灰色の肌としては措定されておらず、ただ、明度と触覚価値だけが効力を持っている。色には地平があり、モノクロ写真の灰色は、彩度色相が背景に退いているだけで、肌のピンクや髪の金色は色の地平として非顕在的に意識されている。しかし、カラー写真の色は、地平をもたず、彩度色相も含めた十全的な色として発現しているので、灰色は灰色として、明度だけではなく、彩度色相がゼロのフル・カラーなのだ。これは、カラー写真の人物の肌をコンピュータでモノクロにすれば、はっきりする。モノクロ写真の肌の色に違和感はないけれど、カラー写真の肌の色だけをモノクロにすると、強い違和感を感じるのは、灰色の肌が、ぬくもりのない石のような肌に見えるからだ。
 身長に関しても同じことが言える。写真(像客体)がどんなに小さくても、赤ん坊は赤ん坊の、子供は子供の、大人は大人の身長に見えるのは、像主体が知覚世界ではなく、中立変容された図像世界に属しているからだ。もし、子供が図像ではなく、ミニチュアの彫像なら、子供は等身大には見えず、物理的像そのままの大きさのミニチュアに見える。というのも、彫像は、二次元のものが三次元になるのではなく、はじめから三次元の立体として、私の身体と同じ知覚世界に属しているからだ。彫像は、私の身体をパースペクティヴの原点とする遠近法的知覚空間にはめ込まれており、私の身体が大きさの尺度になる。
 知覚された立体像は、執拗に物理的像あるいは像客体にとどまろうとする。立体像を像主体として見るためには、鑑賞に没頭して、わたしの身体を消し、立体像を知覚世界から像世界に移してやらなければならない。たとえば、部屋を暗くして、スポットライトをあてるとか、箱に入れて穴から覗けば、彫像は等身大の像主体になって現出する。それに比べ、図像は、はじめから知覚世界ではなく、想像世界に現出しているので、印画紙がどんなに小さくても、写真の子供は、ミニチュアの子供ではなく、普通の身の丈の子供として現出するのである。
 ベラスケスの描いた二枚の宮廷道化師の絵を例に、像主体の大きさについてもうすこし詳しく見てみよう。一枚目の《宮廷道化師セバスティアン・デ・モーラ》は、頭をやや傾け、思慮深そうにこちらを見つめている。顔は大人だが、手足の長さや頭と体のバランスは幼児的であり、また、両足を前に投げ出し、指が描かれていない両手を腿にのせた姿勢は、座っている人間というより、床におかれた人形のようにも見える。したがって、どこに注意を向けるかで、大人に見えたり、子供に見えたり、あるいは人形に見えたりするのだが、それに応じて、身長も、大人なら一メートル七・八十センチ、子供なら五・六十センチ、人形なら数十センチに見える。この一種の多義的図形も、顔の強い意味作用もあって、セバスティアンが、一メートル前後の小人として、安定的な像になる。これは、図像が純粋に直観志向だけではなく、子供、大人、小人、人形という意味志向もふくんでいることを示している。
 二枚目の《宮廷道化師”エル・プリーモ”》には別の類似の弁証法が働いている。エル・プリーモは、下半身は大雑把なタッチで描かれており、上半身は手が少し短いようにも思えるが、全体の雰囲気は通常の成人男子である。それでも、エル・プリーモが小人かとおもわれるのは、彼が手にしている本があまりに大きいからである。といってもここでは相対的大きさが問題になっているのであり、本が大きいから人間が小さく見えるのか、あるいは、人間が小さいから本が大きく見えるのか、図像だけで決定することは出来ない。美術史家ならこの本が何の本か調べ、その判型からエル・プリーモの身長を割り出すことができるだろう。もちろんもっと手っ取り早く、エル・プリーモが小人だったかどうか文献を調べればいいだけのことだが、肖像画の人物がどのぐらいの身長に見えるかということと、そのモデルの実際の身長とは、関係がないし、また本も、それが道具であるかぎり、人間が手にとって読むのにふさわしい大きさがあるにしても、それはやはり作り物であり、絶対的な尺度にはならない。
 もし、これが絵ではなく、現実の知覚なら、エル・プリーモが小さいのか、本が大きいのか、はっきりと判る。これは、すでに述べたように、知覚世界では知覚する者の身体がパースペクティヴの原点として、大きさの尺度として働いているからだ。図像世界は、知覚に基づいてはいるが、知覚世界とは別の《虚構》の世界なので、図像を見ている者の身体が、直接に図像世界のパースペクティブの原点になるのではなく、存在定立が抹消された身体意識が類似性を通して図像世界のパースペクティブと関係しているからだ。

 尻切れトンボで終わっていますが、図像意識の三層構造は抽象画を理解する場合も重要なことなので、是非憶えておいてください。
 図像主題は、図像の指示対象とも、主題(テーマ)ともちがうモノです。
 それと、図像意識と想像意識とは非常に似てはいますが、別のものです。図像意識はあくまで知覚に基づいた意識です。絵のリンゴと想像したリンゴとはまったくべつものです。図像のリンゴはあくまでキャンバスに塗られた絵の具の知覚に基づいているのです。
 それと、これは絵画を見ることで一番重要なことですが、図像とイルージョンも区別しなければなりません。これも、グリーンバーグや藤枝晃雄などの議論では混乱しているようです。イルージョンとは間違った知覚(錯覚)ですが、図像(Bild)は間違った知覚ではなく、知覚の中和変容、すなわち、知覚しているものを存在すると措定せずに、宙ぶらりんにして見ているのです。この中和変容は、例えば他の記号意識にも起こっていることです。紙に書かれて文字を読むとき、われわれは確かに鉛筆の痕跡を知覚しています。しかし、われわれは知らない文字の場合がそうであるように鉛筆の痕跡を見ているのではなく、その意味を見ているのです。このことは、三層構造と相俟って、図像主題をもたないといわれる抽象画に密接にかかわってくる重要なことなので、注意が必要です。

 また、図像の大きさに関しては、私のブログ「ART TOUCH 美術展評」の「プラド美術館展評」をご覧下さい。ヴェラスケスの『エル・プリモ』について述べてあります。

2010.07.07[Wed] Post 22:44  CO:0  TB:0  ①第一章 フッサールの図像意識の分析  Top▲

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