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マネ論③ ミシェル・フーコーの『マネの絵画』

《フォリー・ベルジェールのバー》の後姿のメイドは鏡像なのか、それとも別のメイドなのか、絵を見ただけでは判らない。しかし、美術史家には鏡像だと言うことが当たり前のようになっている。何年か前に『コートールド・コレクション展』でこの絵を見たときは、後姿のメイドが鏡像なのか、絵画なのか、それとも別人のメイドなのか判らない曖昧な感覚だけが残ったことを憶えている。もう一度、『芸術新潮5月号』の写真を見ながら分析してみよう。

まず、鏡を括弧に入れて、絵を見てみよう。後姿のメイドは、正面のメイドの後姿のようにように見える。それというのも、視線の角度が違うけれど、髪や衣服が同じだから、同じ人物の正面姿と後姿に見える。そうなれば、後姿は鏡像ということになる。しかし、どこにも鏡らしきものはない。しかも、メイドの後姿以外は実像と鏡像(虚像)の対応関係を示す事物は描かれていない。それでもメイドの後姿が鏡像にみえるのは、類似が同一性の感覚を生むからだ。

このことは、マグリットの《複製禁止》という作品を見れば分かる。《複製禁止》は鏡を見ている男の後姿が描かれている。ところが、鏡に写っている男も後姿なのだ。ということは、男が見ているのは鏡ではなく男の絵(写真)ということになる。それでも鏡に見えるのは、同じ図像がコッピーされているからだ。でも、すぐにおかしいと気づく。鏡の光学に反しているからだ。暖炉の上に置いてある本が「鏡」に映っているように見えるが、これはもちろん鏡ではなく絵だ。ただ、鏡像のように、本の反転した図が描かれているだけだ。(注1)

《複製禁止》の額縁にはめられた後姿の男は、光学理論から見て鏡(像)ではなく、絵(写真)である。それに対して、《フォリー・ベルジェールのバー》の、一見して、鏡像のように見える後姿のメイドはどうだろう。どこかチグハグな感じがする。さいしょに違和感を感じるのは、メイドが話している男の位置だ。後姿のメイドが正面姿のメイドの鏡像ならば、その近くに立ってメイドに話しかけている男の後姿の実像が、描かれていなければならないのに、そこには誰もいない。

もちろん、後姿のメイドが鏡像だとすれば、二人のメイドの間に斜めに鏡があるはずだが、鏡らしきものはない。それならば、マグリットの《複製禁止》のように後姿のメイドは鏡像ではなく図像(絵)ということになる。しかし、無理やり、メイドの背後に見える桟敷席は大きな鏡に映っているのだと思えば、そういう風に見えなくもない。観者の視線は宙に浮いたまま漂っている。

ミシェル・フーコーが『マネの絵画』で《フォリー・ベルジェールのバー》を「鑑賞者の位置」という視点から分析している。彼はメイドの背後に鏡があるという前提から始める。フーコーはメイドの尻の高さに描かれている金色の帯が鏡の縁だという。鏡はメイドの背後のほとんどを占めており、しかも、キャンバス面と平行で、観者は中央のメイドの正面に立ったいる。

そうであるならば、メイドの後姿は、メイドの後ろに映ってみえるはずなのに、実際にはずっと右側にずれて映っている。しかも、酒瓶や果物の実像と鏡像の対応関係がないので、それがすぐには鏡像だとは判らない。後姿が右のほうに見えるためには、画家の視点は正面ではなく、右の方にズレていなければならないとフーコーは言う。しかし、画家(鑑賞者)の視線はそこにはない。

また、画家の視点を移動させないで右のほうに鏡像が見えるためには、鏡を斜めにすればよいのだが、鏡はカウンターと平行である。したがって、鏡像のメイドにが捩れていることになる。また、鏡に映っている男はメイドのすぐ近くにいるのだから、実像の男が正面のメイドの前に描かれていなければならないが、男はそこにいない。また、鏡に映っている男はメイドを見下ろしているけれど、正面のメイドを見る視線は見下ろしてはいない等々。

フーコーは鏡の光学と遠近法の視点に基づいて「鑑賞者の位置」を分析する。そして以下の三つの両立不可能性を見つける。

【1】画家はここにいると同時にあちらにいなければならない。
【2】ここに誰かがおり、まただれもいないのでなければならない。
【3】見下ろす視線と見上げる視線がある。
われわれが今見ているような光景をみるためにどこにいればよいのか知ることができない、というわれわれが直面している三重の不可能性、そしていうなれば、鑑賞者が占めるべき安定した確固たる場所が排除されていること。もちろんそれが、この絵の根本的な特徴のひとつなのです。(『マネの絵画』阿部崇訳)


マネの《フォリー・ベルジェールのバー》によって、ひとつの視点から見る遠近法的な空間のイリュージョンが破綻し、〈オブジェとしてのタブロー〉、〈オブジェとしての絵画〉が発見されたと、フーコーは言う。結局、フーコーはマネをグリーンバーグ流のモダニズムの始まりだと言っていることになる。

フーコーは鏡を前提にして、《フォリー・ベルジェールのバー》の視線や空間を分析する。そして、〈オブジェとしての絵画〉を発見する。もういちど作品を見ることから初めて見よう。

つづく









複製禁止 マグリット
2010.06.29[Tue] Post 01:09  CO:0  TB:0  -マネ  Top▲

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