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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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ootani yuka's work is just crap. childish, lacks imagination and just doesnt show any artistic talent. i wont ever understand why her works got such acclaim. there s no technique either.
2012.02.07[Tue]  投稿者:im sorry  編集  Top▲

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大谷は本当に作家としてFailである。あの人の作品を見るたびに恥ずかしくなる。作家の恥だ。
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本江邦夫の絵画論を批判する

本江邦夫は大谷有花論(『現代日本絵画』)の中で「絵画は絵画によって絵画である」と同語反復の絵画の定義を述べている。もちろん同語反復の例にもれず、このアフォリズムめいた言葉も意味不明だ。本江は同じ本のなかで「絵画は絵画であり、何かの象徴ではないし、理念的なものでもない」という辰野登恵子の言葉を引用しているけれど、これは常識的なモダニズムの絵画観を言ったもので、本江のような曖昧なところはない。

本江邦夫の絵画論は、美術(史)の文脈を無視した突然のレトリックで驚かされる。『VOCA』2010展の選考評『表面について』もそうだ。冒頭、いきなり、「表面とは、背後も奥行きももたず、それ自身でしかないものを言う」と言い、次の節では「表面は現実であり、現実は表面である」とまるでヘーゲル弁証法のもじりのようなことを言うのだが、そもそも表面というからには、裏面や内面があるはずだが、そんなものには触れられていない。たぶん、ちょっとまえに流行った「表層理論」の借用なのだろう。

本江は、表面はそれ自身でしかないものであり、表面が現実なのだといって、哲学的文学的な修辞を弄し、肝心の絵画の物理的表面についてはなにも語らない。そのかわり、ハムレットの「鏡」の比喩を使ったセリフ「自然にたいして、いわば鏡をかかげる」を引用し、「だから」芸術や絵画が本質的な役割を果たさねばならないし、今回のVOCA展に表面にかかわる仕事が異常に多いのはそのためだと言う。

そして、表面にかかわる芸術は、文句なく写真だというのだが、これは上に述べたハムレットの鏡の比喩を受けたもので、写真は、鏡に写った映像を定着したいという昔からの願いを実現したと言う写真史のエピソードを踏まえたものだ。もちろん写真は真実だということも含意している。

本江邦夫の絵画論は写真論をもとにしていることは『現代日本絵画』の序文を見ると判る。

なぜ絵画なのか。あるいは絵画とは何なのか。答えは今や明白であろう。それは原理的に三次元の二次元への写像ないし圧縮であり(だからといってこれを再現的にのみとらえないでほしい)、と同時に三次元にあって二次元とかかわる、この意味で二つの次元にまたがることを宿命づけられた人間存在にとってまさに必要不可欠の媒体であり、したがって「絵画の死」などという究極の事態などありえないのだ。これを、絵画とともに人類は誕生し、絵画とともに死滅すると言ってもかまわなだろう。


「三次元の二次元への写像」というのは写真のアルゴリズムであり、類似性を媒介に目で見て手で描く絵画のアナログの手続きとは異なるものだ。かれはひたすら写像理論に基づく曖昧な表象文化論を述べる。

絵画が三次元の二次元への写像だと考える本江は、当然、抽象画より具象絵画を支持する。本江は、イリュージョンがなくなり、即物的に支持体と顔料が一体になったオブジェが、グリーンバーグ流モダニズムの最終目標だったというのだが、それは岡崎乾二郎が目指したもので、グリーンバーグが否定したのは、古大家のイリュージョンであって、ポロックやロスコのイリュージョンではない。しかも、それも暫定的なもので、将来目利きが、古大家の作品をあらたなフォーマリズムの視点から見直すかもしれないと言っている。

本江はグリーンバーグに何か恨みがあるかのように言う。

絵画に固有の特質として「平坦さ」(flatness)を抽出し、そこに絵画の自給自足(autarky)を見出したのは、ほかでもないグリーンバーグだった。しかし、残念なことに、彼はこの卓抜なアイデアからイリュジョニズムの否定という、それ自体は今や陳腐な結論しか導きだすことができなかった。絵画の王国を、ある意味で独力で築き上げたこの稀代の批評家にあってもまた、いやだからこそ、絵画の根拠に迫るだけの動機がなかったように思えるのである。


というのだが、グリーンバーグほどに、絵画の根拠、すなわち絵画の三層構造、なかんずく、絵画の物理的層とイリュージョンの層の弁証法に迫った美術評論家はいない。

さらに本江は持論を展開する。

彼(グリーンバーグ)は二次元としての絵画の基本的な機能、すなわち情報伝達の手段もしくは認識の装置としての絵画の側面に目を向けることはなかった。


目を向けなかったわけではない。グリーンバーグはただ「再現性は絵画にコンセプチャルな意味を与えるが、それが作品の美的な価値を高めるのか減じるのかは一概にいえない。歴史的な出来事に言及している からといって、ピカソの《ゲルニカ》が、モンドリアンの非対象絵画より豊かで質が高いとはいえない。」(“Abstract, Representational, and so forth”1954年拙訳)と言っているだけだ。

本江がここで絵画の機能といっているのは、いっとき流行った表象文化論が論じたことで、そんなものはポストモダンの衣裳をまとったカビ臭い図像学の焼き直しだ。

もちろんここで本江がグリーバーグに仮託して藤枝晃雄の悪口を言っていることはわざわざ指摘するまでもないことだろう。それから、ついでに、今、気づいたのだが、『現代日本絵画』(みすず書房¥3800円)のカバーに山田正亮が描いている絵は、オリツキーのパクリといわれても仕方ない気がするけれど。


『大谷有花が絹谷幸二賞を受賞』
2010.03.31[Wed] Post 23:44  CO:2  TB:0  -本江邦夫  Top▲

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