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ゲルハルト・リヒター 「New Overpainted Photographs」展(前編)

「WAKO WORKS OF ART」のリヒター展は「New Overpainted Photographs」というタイトルだったので、あまり期待していなかった。写真の上に絵具を擦りつけた作品は川村美術館の「ゲルハルト・リヒター -絵画の彼方-」で見ていたからだ。自分で撮ったフィレンツェの風景写真を使ったというoverpaintedの作品は、私には図解的でそれほど面白くなく、実験的な試作品のように思えた。

リヒターの写真をつかった作品は、「絵画とは何か」の解説のようなところがあって、評論家はいろいろ論じられて面白いのだろうが、素人にはその技術やアイディアに感心するだけの作品になっている。写真は、インデックスとイコンの二重の記号なのだが、リヒターはインデックス記号としての写真の物理的表面であるボケ・ブレ・ソフト=フォーカスを模倣することで被写体ではなく、写真そのものをスーパーリアルに再現した。(注1)

このことは「図像の三層構造」で考えればよくわかる。ダゲレオタイプの写真が発明されてすぐにアングルなどのアカデミー画家たちは写真を利用し始めたが、それは写真の「図像客体」ではなく、図像主題を模倣したのだ。当時、写真はまだモノクロだったが、彼らが描いたのは色彩のある絵画だった。それに対してフォトリアリズムがすでにカラー写真が誕生していたにもかかわらずモノクロ絵画を描いたのは、制度的約定的に図像客体がモノクロであることが依然として写真の形式的特徴だったからだ。

もちろんフォトリアリズムは被写体(図像主題)を再現(represent)するのではなく、写真画像(図像客体)を再現するのだから、カラー写真を使ったフォトリアリズムは、図像客体がカラーなのだから、当然色彩絵画になる。その場合色彩はカラー写真特有の色調になるはずだが、実際にはコダックの色調やフジの色調に描いたとしても写真的な面白さはないだろう。むかし、モノクロ写真に彩色したカラー写真があったけれど、中途半端でつまらないので普及するにいたらなかったのは当然である。色彩は写真にとって本質的なものではない。

どちらにしろ、モノクロのフォトリアリズムと異なり、カラーのフォトリアリズムは、図像客体を再現しているのか、図像主体を再現をしているのか区別するのが難しい。たとえば、上田薫の《なま玉子》のシリーズは、「写真みたいな絵」、あるいは「絵みたいな写真」であり、写真とイラストの合いの子になっている。《なま玉子》が「写真みたいなイラスト」に見えるのは、リアルな描写にもあるが、何よりも玉子の黄身が割れた卵のからから落ちる瞬間を「高速シャッターで撮影」しているからだし、「イラストみたいな写真」に見えるのは、フォトショップで処理した広告写真によくみられる階調性に欠けた硬調な描写だからだ。

上田薫のスーパー・リアリズムは写真とイラストの境界領域にあり、単純な写真的リアリズムではないことは、例えば、《オレンジにナイフ》と高島野十郎の静物画のリンゴと比べてみれは明らかだ。高島野十郎は写真的な描写を排し、図像主題のリンゴが目に見える通りに再現しようとしている。そのことが結果的に写真に似た描写になったのだ。(現象学的ではなく自然科学的に言えば、これはわれわれの視覚のアルゴリズムと写真のアルゴリズムが類似していることによっているのではないか)

それにたいして、リヒターは、図像主題(内容)ではなく、写真のボケ、ブレ、アウト・ファーカスなどの逸脱した図像客体(形式)を利用した。これは図像主体のリアリズムではなく、図像客体のリアリズムなのである。ブレ、ボケは写真画像に特有な現象である。だから、それを再現した絵画も写真に見えるのだ。面白いことに、プリントを「雑巾がけ」などしてボカした写真をピクトリアリズムと称した芸術写真の流派がいたことだ。

以上の「フォト・ペインティング」のシリーズはあくまで同一の図像の中の三層構造の問題だが、「Overpainted Photographs」は風景写真と抽象画の二つの別の図像の重なりの問題をあつかている。リヒターは自分にとって風景画と抽象画の区別がないと言うけれど、画集《Firenze》の解説でDietmar Elger は、「リヒターの作品には再現描写と再現に奉仕しない自律的な絵画との境界領域、あるいは、イリュージョニスティックな風景描写と物質性の両者を分かちがたく貫いているさまざまな実在性のレベル」があると言っている。

後編ではこの問題を考えてみる。 づづく

注1:HP『絵画の現象学』の美術評論『写真はインデックス記号か?』を参照
2010.03.08[Mon] Post 21:05  CO:0  TB:0  -ゲルハルト・リヒター  Top▲

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