ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

スポンサーサイト のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/664-01032058
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

『ゼロサムネイル』は図画工作である-- 特集展示・岡崎乾二郎(MOT)③

サムネイルは画像などを縮小して元画像の代わりに目録やファイリングに使うアナログ(類似)記号のことだ。岡崎乾二郎の『ゼロサムネイル』は、小さいゼロ号のキャンバスに描かれた抽象画の原画であり、ほかに代わり(stand for)をする大きなオリジナルの作品があるわけではない。そういう意味ではこれはサムネイルではない。去年の川村記念美術館のロスコ展には『テート・ギャラリーのシーグラム壁画展示のための模型』が展示されていたが、その模型の壁には展示する予定のシーグラム壁画の縮小絵画が掛けてあった。これが縮減模型すなわちアナログ記号としての「サムネイル」である。

それにしても、『ゼロサムネイル』はタイトルの勝利である。タイトルを見るとなにかデジタル時代の新しい芸術におもえる。サムネイルは弁別的差異のシステムによるデジタルな記号ではないが、類似によるアナログ的な目印徴表としての記号性がある。小さいから近くで見る。作品の間隔が離れているので一つずつ見る。パ レットナイフで擦りつけた絵の具の盛り上がりが見える。小さくても図像(picture)なら実物大のイリュージョンが現れるだろうが、絵の具を擦りつけた、「死んだ余白」のあるゼロ 号の抽象画はゼロ号の汚れたキャンバスに見えるだけだ。(注1) 彩度、色相、 明度などの色彩対比は弱く、中心も周辺もない。評論家たちはそれを開かれた構造というけれど、むしろ、おおきなオールオーバーな抽象画の一部を切り取った「生地の見本」のようにも見える。一つ一つはつまらない抽象画だけれど、たくさん並べれば、いろいろな抽象画の見本を並べたカタログとしての面白さがうまれる。このあたりが岡崎乾二郎の図画工作の工夫があるところだ。

大きな二連三連の「組絵画」にも工夫はある。『ゼロサムネイル』にはアナログ記号の差異があった。擦りつけた絵具の色や形でそれぞれのサムネイルが識別できたけれど、組絵画のほうは似たような色や形で、アクションでもなくドリッピングでもなく、ブラッシュ・ストロークでも線描でもなく、ただパレット・ナイフ(?)で塗りつけたようで、どれも同じような「絵具で汚したキャンバス」にしか見えない。イリュージョンのない退屈な四角い事物である。そういう意味ではモノクローム絵画よりもはるかにポスト・モダンのミニマル・アートに近いといえる。

ところが、岡崎は同じような抽象画を二枚並べることで、失った絵画の諸関係を回復しようとする。てっきり別々の制作した絵を組み合わせたのかと思ったのだが、じつは二つの絵ははじめから関係性をもって描かれているらしい。祭壇画の二連三連の絵画は宗教的物語(ヒストリー)を語っているのだが、抽象画には物語はない。だから岡崎の二連の抽象画は物語でつながっているのではなく、色や形の形式の関係があるというのだが、それならそうと、その関係がどんな効果やイリュージョンを生み出しているのかネットで検索したブログから引用してみよう。(古谷利裕も岡崎論をたくさん書いているけれど相変わらず難解なので失礼)


物質の抑揚、垂れをともなう描かれた場における具体的なノイジーな表情に一方で捕らえられつつも、二つの画面を行き交いながら、激しく我々の知覚は揺れは じめ、安定した受容は不能となろう。果てし無い不確定の知覚の中、それは1対1の対応に終始する二枚の絵ではなく、果して自在なイマジネーションの渦中で 輝く仮想の面を見てしまう。関係性と決定的な断裂を持ちながら、単体としても存在しつづける絵画。(artscape『動揺する知覚の中でみる官能』天野一夫)(ママ)


柔らかく閉じたブロック状の筆致のディプティックが美しく、あるいはより初期の、色彩や形態、マチエールといった諸要素が一対の作品間で対位法のようなネットワークを つくりだす2002年の作品にもクラクラさせされる。つまり2002年の段階で目も眩むような構造的な対応関係が頂点に達し、次の段階で柔らかな筆致が内 側に巻き込むようにして色彩が個別の単位性を強め、さらに近作に至っては、こうして個別の単位性を強めていた色面が鋭いエッジを持ちながらねじれ、多方向 に開かれていく。色彩も同様に、これまでの岡崎作品にみられるような諸力の均衡状態とは異なる、突き抜けるような彩度の高さを持つことで、作品の裏側に あって絵画の諸パラメータを結びつけていた構造の編目を内破するかのようにも見える。(童話日記『MOTコレクションの岡崎乾二郎』kosuke ikeda)


知覚が激しく揺れるとかクラクラするとか、オップ・アートならそういうこともあるだろうが、そもそもオップ・アートの運動感覚は、隣接した連続模様から生じる錯視であって、岡崎の二連絵画にそんな運動感覚は生じないが、造形も構図も構成もない不定形の似たような抽象画を交替に見れば、たしかに眩暈ぐらいはするだろう。あるいは、色相対比や彩度・明暗対比などを利用すれば視覚的な効果を強めることもできるかもしれないが、それも同じ視野に隣接した場合だろうし、そもそも岡崎の作品は色彩対比も弱く、反幾何学的な抽象画なので、とても対位法や多声楽的空間など持ち出す余地はないだろう。もちろん絶対音感があるように絶対色感というものがあって、同じ視野領域ではなく、別の離れた絵画の中にある二つの色彩や形態が記憶や残像を介して響きあう可能性が絶無とは言えないけれど、もしそういうものがあったとしても、それは知覚心理学的な錯視現象であって、絵画的なイリュージョンではないだろう。

たしかに岡崎乾二郎は浅田彰の言うように世界の美術史の文脈の中で仕事をしようとしていることは認めなければならない。ジャッドは絵画でも彫刻でもないステンレス製の箱で絵画的イリュージョンを抹殺したけれど、岡崎はキャンバスに絵具を塗るという絵画を絵画の本質に還元することで、めでたく絵画からイリュージョンを排除したのだが、あとに残ったものは「絵具で汚れた平たいな事物」というリテラルなものだったのだ。

それを会田誠は山口晃とのふたり展『アートで候。』(上野の森美術館)に出展した『浅田批判』(岡崎作品のパロディ)で揶揄したのだが、そんなことにお構いなく、岡崎はさまざまな細工を引き続き施している。まず、抽象画を二枚組にするだけではなく、二枚の間隔を狭くしたり広くしたり、あるいは壁のコーナーに90度向かい合わせたりして、あたかも観者の視線の動きが重要な意味を持つと思わせている。また、三連の組絵画のキャンバス・サイズが異なるのは、三作品は内容(物語)の関係ではなく、支持体の形式(大きさ)の関係だといっているわけだが、キャンバスの間隔の違いも、キャンバスの大きさの違いも、作品の外部にあるもので、いわくあり気な反芸術であって、結局のところ作品が「絵具で汚れた平たい事物」であることを露呈するのに役立つだけだ。

もうひとつ付け加えると、タイトルの問題がある。抽象画には自然的対象が描かれているわけではないので、タイトルを付けるのは難しい。番号をつけたり記号を付けたり日付を付けたりする作家もいる。イメージをあらわすタイトルをつける作家もいる。制作意図をあらわすタイトルもある。岡崎のタイトルは文章や句になっている。『ゼロサムネイル』には日めくりカレンダーや禅問答のような短いものがついている。「組絵画」には現代詩のような長い文章がついている。

これらのタイトルは表題というよりキャプションだろう。三連の「組絵画」には、死者、天の光、肉体もなく翼も必要ない魂、言葉ではなく眩しい光が地上へとどく、空の国は地上より美しい等々、宗教的神話的な言葉を使っているが、ただの連想ゲームのようにおもえるし、あるいは作者が作品を眺めながら自動速記をしたのかもしれないけれど、そんなことは岡崎乾二郎の勝手で、三つのキャプションは、ただキャプション同士がなにやら関係ありそうに見せているだけで、作品の説明にはなっていないし、上述した抽象画のタイトルの類型のどれにも当てはまらない。

おそらく岡崎は祭壇画と聖書物語の親密な関係を脱構築(?)するために、抽象画に現代詩もどきのキャプションをつけただけで、キャンバスの大きさが異なるのが作品の外部であるのと同じように、キャプションもまた本来は作品の外部にあるのだ。もし、タイトルやキャプションが意味を持つとしたら、それは一枚のタブローではなくインスタレーションの類と言うことになる。岡崎は絵画をキャンバスと絵具に還元しながら、キャプションという作家の詩もどきの告白によって、ありもしない作品の深層の意味を裏口から密輸入している。

同じことは表題やキャプションばかりではなく、作家の理論についてもいえるのだろうが、あいにく岡崎理論には不案内で、そのうえ美学に疎いときているので、これ以上のことはわからない。作品を見ての感想は以上のとおりだ。岡崎理論についてはおいおい勉強するが、上で引用した二人の評論は岡崎理論に基づいたものだろうから、彼らの理論にはあまり期待はできない。

ひとまずこれで、おわり


注1:「会田誠の浅田批判」
2010.02.09[Tue] Post 00:58  CO:0  TB:0  -岡崎乾二郎  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

『ゼロサムネイル』は図画工作である-- 特集展示・岡崎乾二郎(MOT)③ のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/664-01032058
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。