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『トウキョウソナタ』黒沢清監督★★★☆

黒沢清の映画は、大井武蔵野館で見た『ドレミファ娘の血は騒ぐ』が初めてだった。映画通たちが絶賛していたけれど、わたしにはどこが面白いのかわからなかった。

黒沢清の名前は現代思想系の雑誌でよく見かけるようになったが、興味がなかった。『トウキョウソナタ』はカンヌ映画祭の『ある視点』賞を受賞したと言う事で、TSUTAYAの宅配で借りた。テンポが遅いのは、たぶん「フィルムの官能性」というよりも「フィルムの暴力性」ではないかと思えるのだが、それでも、そう覚悟してみれば、それはそれでまたひとつの映画の楽しみ方なのかもしれない。

冒頭のシーンからして、違和感がある。テーブルから新聞が風で舞い上がり床に飛んで落ちる。居間のガラス戸が開いていて、天気雨の雨が吹き込んでる。小泉今日子が濡れた床を雑巾でふいて、いったんガラス戸を閉めるのだが、また、開けて、雨に顔を濡らす。これからのこの家庭で起こることを暗示しているのだろうが、なんだかなぁという感じ。こんな感じが最後までつづき、なかなか映画を楽しめない。異化作用といわれればそうかもしれない。それでも不思議に記憶に残るシーンがたくさんある。

どこが面白いというのか、ためしに「トウキョウソナタ 批評」でググって見たら(12/5現在)、上位6位までに三つのブログに以下の文章があった。

*この映画にはロングショットがほとんどない。黒沢清の映画にロングショットが無い、という信じられない事実に我々はどう対処すれば良いのか。(映画研究塾 2位)

*映画史上、既に名匠の一人として稀有な創作能力と実績を持つ映画作家であっても、「トウキョウ」の一語を冠するタイトルを持つ作品を作るとなれば大いなる覚悟が必要である。ましてその作家が日本人であり、かつその新作がホームドラマであるというならば。(飄々批評宣伝 5位)

*取ってつけたような役所広司の強盗の役回りはただただキョンキョンをこの海に連れ出すためだけであるかのようだ。(佐藤秀の徒然幻視録 6位)


蓮實重彦の劣化コピーとまでは言わないが、おそらくかれの影響を受けたブロガーたちだろう、『トウキョウソナタ』に高い評価を与えている。「役所広司の役回りはキョンキョンを海に連れ出すためだけだ」という佐藤氏の指摘にたいし、映画研究塾さんが同じことを、「役所広司というマクガフィンに家の外へ連れ出された妻」と表現している。たしかに、この役所広司の強盗には違和感を持つ人が多いだろう、1位と4位のブロガーがこのシークエンスを批判している。

*佐々木の家に忍び込んだ泥棒(役所広司)と佐々木の妻(小泉今日子)のストーリーはなんで急にこんな唐突な話をいれるんだろうという不信感が噴き出す。この取って付けたようなエピソードはなんなのだ?(Lacroix 1位)

*役所広司演じる強盗が出てきた瞬間からこの映画は完璧にぶっ壊れてしまう。全く修復不可能なほど。ストーリーも完全にストップ。(東京漂流日記2.0 4位)


かくのごとくGoogle検索の上位で意見が割れているけれど、「映画美学」からみれば、あきらかに、あとの二人の批判は的外れである。もともと黒沢清監督はそういうふうに作っているのだ。これは一種の白昼夢になっており、小泉今日子が白馬にまたがった王子様に助けられるという夢が叶えられなかったという、いわば劇中劇だ。この劇中劇は、夫がトイレで拾った大金を着服しようと思うけれど、結局遺失物BOXに返却する逃走劇と平行している。劇中劇だということは、小泉今日子と役所広司が桟橋で芝居がかった台詞回しをすることでもわかるだろう。(注)

だからと言って、この役所広司の強盗のシークエンスが「官能的(ソンタグ)」かどうかはまた別の問題である。ストーリーをストップさせるとか唐突だとかいう言い分にも理はゼロではないだろう。映画技法などの形式批評もまたジャルゴン化する恐れはある。

もちろんジャルゴンがわるいのではない。悪いのはジャルゴンのために作家が作品を作りはじめることだ。そのけっか作品は批評家と作家の共同制作になる。この現象は、映画より早く現代美術でおきたのだが、それは、美術にはコレクターという芸術の投資家がいたからで、それに対して、映画は長いあいだ娯楽のままであり、面白くなければ観客を動員できなかったから、なかなか芸術になれなかったのだ。

映画は高級文化ではなく大衆文化のものと見なされてきたために、頭でっかちの連中からかまわれずにすんだのだ。(『反解釈』ソンタグ)

ところが形式批評が映画を芸術にした。芸術になれば、観客を動員しなくても映画が作れる。世界中の映画愛好家が集まって支えてくれる。賞も貰える。補助金もでる。雑誌が特集を組む。大学に映画学科ができる。教授になる。学生が映画を研究する。そして、現代アートと同じように、自分の作品を自分で論じる監督が誕生する。

北野武の『監督・ばんざい』はそのことを自虐的に描いた映画だが、もちろん成功したとは思えない。映画はいま自己言及性という遅れてきたモダニズムの苦しみを苦しんでいるということではないか。

役所広司の強盗のシークエンスは、三谷幸喜風のところがあるが、それでも、小泉今日子が「もう帰れません」といって、車をオープンにして走りだすところや、仰向けになって波に洗われているのをクレーンで真上から撮るショットや、浜辺で朝日に顔が照らされるシーンはとても美しいと思うけれど、どこか取ってつけたようなチープな感じは否めない。

『トウキョウソナタ』の評価はともかく、黒沢清が北野武とは比較にならないほどの才能の持ち主であることはわかった。これも上記の三人のブロガーのおかげである。

注:帰宅した夫の作業服や顔が汚れているのに、妻の服装は乱れても濡れてもいない。帰宅した家は強盗に荒らされた跡がない。

『復讐・消えない傷痕』黒沢清監督★★★★の記事へ
2009.12.08[Tue] Post 01:26  CO:0  TB:0  映画  Top▲

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