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東浩紀の「否定の否定神学」

まずは【ニコニコ動画】東無双@民主主義2.0を見てください。

東浩紀がみんなを煙に巻いている。出だしのところをちょっと起こしてみる。
「何を言ってもこのゲームは負けるので、いや、そういうふうにゲームが設定されているので、あまり意味がなくて、それで、まあ、いちおう僕が書いたのはこういうことでね」と言って《若者論ではなく未来論を》と書いたフリップを見せる。「つまり、あのう、まあ、ほとんどやる気がないんですけれど、若者論とかやってもしょうがないんです。そもそも日本という国はこのままだめになるのは自明であって、なぜかというと子供が少ないからです。若者がすくないからです。・・・・・[途中省略]・・・・・・さっきからすごく退屈」と一方的に喋っている。

東浩紀氏は「そういうふうにゲームが設定されている」とか「ほとんどやる気がない」とか「さっきからすごく退屈」と、はなっから、議論をするつもりがない。というより、あいてにつけ込まれるスキを与えないように、なぜそうなのかの説明は一切しないままあっちこっちノミみたいにはね回っている。気持ち悪いのは東氏のそう言う発言に他の出席者やひな壇の若者がへらへらと笑うことだ。

結局のところ東氏は「インターネットによる直接民主制」を提案し、その根拠に直接民主制を唱えたルソーを持ち出すのだが、いったいルソーの民主制には多数決の原理がない。みんなの意志を集めた全体意志は道徳にかなった一般意志ではないというのだが、その一般意志が何なのかわからないけれど、それに従うように強制されるのだ。だからルソーの直接民主制はぜんぜん民主的ではなく、全体主義的だ。

といっても、全体主義というのは、そもそも政治の直接参加から生まれてくる。代議員に任せずに議会を占拠する。暴力革命を起こす。デモをする、市民集会で焼却場にはんたいする。どれも政治の直接参加だ。いちばん民主的なのはナチだった。かれらは数万人を広場にあつめて直接訴えて、直接歓呼の声を聞き、そして国民投票をして独裁者になった。(ヒットラーは間接制と直接性を巧みに組み合わせた)

東氏はインターネットは政策選択につかうのではなく、政策形成に使うという。インターネットをつかって政策審議過程をぜんぶ透明化し、パブリック・コメントのシステムをもっと洗練化された形にすれば、ぜんぜん違う政策の作り方ができる。そして、インターネット投票ではなく、SNSやTwitterをつかえばロングテールを含めた集合知によって政策形成ができるという。

東氏の言っていることがわからない。直接であろうが間接であろうが民主制とはみんなが政策形成に参加することだろ。政策は話し合いで決める。しかし、どんな小さな共同体でも意見が一つになることはない。仕方ないから多数決できめる。多数決は次善の策なのだ。

ところが東氏は多数決がお嫌いらしい。たぶんルソーを研究しているといっているから、多数決できめられるのは全体意志であって、一般意志ではないというのだろう。それで、かれが多数決のかわりに持ち出すのがインターネットだ。もちろんインターネットと言ってもネット投票による多数決ではなく、SNSやTwitterをつかって集合知としての政策形成をする。もちろんこの集合知というのはルソーの一般意志だというのだろう。

しかし、インターネットは神の手ではない。SNSやTwitterだけでは集合知としての政策形成はできない。集合知ができるのは市場によってであり、ロングテールもネットオークションもネット上に生まれた市場なのだ。市場による情報処理は、多数決による政治的合意形成よりもはるかに効率がよい。進化も自然選択という市場によって形成された集合知なのだ。

市場というのは、希少な財やサービスを最適に分配するシステムだから、私的な領域では機能しても公的な領域では上手くいかない。公共領域では、たいていの場合一つの政策を選択するしかないので、たとえ双方向性のインターネットを使っても市場化はなかなかむずかしい。結局のところインターネットは政策形成ではなく、政策選択のための情報収集に便利な手段にとどまるのではないか。

グーグル検索を見ればわかるように、インターネットは集合知を生み出す魔法の杖ではない。同じ情報産業の新聞テレビと比較してみればわかるだろう。新聞テレビは情報を操作することで疑似集合知である世論を形成し、投票行動に影響を与え、間接的に政策決定をしている。それなら、インターネットを使えばこのマスメディアの偏向を是正することができるだろうか。

たしかに、インターネットはマスメディアが隠している情報を伝えてくれることがある。はじめて真理を発見したような新鮮な驚きがある。しかし、こんな経験ははじめてテレビを見たときにもあった。映像は新聞の文字や写真とは全く別物のリアリティがあった。ところが今はどうだろう。司会者の主観的な反応、コメンテーターの偏向したコメント、そして何よりも編集による捏造などによって世論を誘導するのに一所懸命だ。新聞だって同じことだ。はじめはスキャンダルと政府批判で売っていたのに、じきにファシズムのプロパガンダ、戦後はマッカーサーから社会主義へ、そして今は人権平等主義の普及に邁進している。

たぶん、インターネットも同じ轍を踏むだろう。

東氏は哲学者らしいが、それにしても、直接民主制といいながら、一般意志による神学的統治を主張したルソーを持ち出すとは、いったい彼のいう集合知とはなんだか良く分からない。SNSやTwitterで田原総一朗をおどかしても集合知はえられない。

東氏はポストモダンは否定神学だという。しかし、否定神学が神は無根拠だといおうが、肯定神学が神は究極的な根拠だといおうが、どちらも形而上学的思弁には違いない。もちろん東浩紀の「否定の否定神学」もまた思弁的な神学なのである。

2009.11.16[Mon] Post 22:40  CO:0  TB:0  文学  Top▲

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