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『ダークナイト』 クリストファー・ノーラン監督★☆

何が何やらちんぷんかんぷんのうちに終わってしまった。ジョーカーが悪者でバットマンが正義の味方という予備知識を頭に入れて、どっちがどっちか間違わないように注意して見たけれど、話が複雑過ぎて結局何もわからなかった。

『スターウォーズ』も善と悪の戦いが描かれているらしいのだが、なにが善でなにが悪なのか、冒頭のナレーションを何度聞いても、ただそう決まっていると言うだけで、結局、お姫様がいる方が正義だと言うことぐらいしかわからなかった。

ところが斎藤環氏が『VOICE+』の「『虚構』は『現実』である」というエッセイで『ダークナイト』の悪の分析をしている。

1980~90年代のハリウッド映画には悪しき「心理学化」(もしくは「心理主義化」)があった。人はトラウマゆえに怪物化 し、悪をなす。どんな悪者も、その根拠となるトラウマを隠しもっているという考えだ。しかし、そういう心理主義化は近ごろあまりみられなくなったと斎藤氏はいう。

たとえば、『羊たちの沈黙』のレクター博士は、完全な知性をもちながら、まったく内省を欠いた存在であり、彼の「悪」には根拠というものがない。それゆえレクター博士には「ためらい」が存在しない。これは言い換えるなら、「内省」と「根拠」を欠いた存在は、その存在自体が「悪」だと言う。

しかし、『ダークナイト』でジョーカーが耳まで裂けた口の由来を告白し始めたとき、また心理主義化ではないかと厭な予感がしたけれど、結局、そうではなかったと斎藤環氏はいう。

第1の「告白」でジョーカーは、子供のころの凄惨な思い出を語る。酒乱の父親が母を刃物で刺し殺し、その場で自分も父親に口元を裂かれたのだ。しかし第2 の「告白」では、話がまるで違う。その傷は、借金がかさんで身も心も傷ついた妻を笑わせるために、自ら切り裂いてみせた、というのだ。一体、どちらが真実 なのか。
  もちろん、どちらもデタラメだ。強いていえば、ジョーカーはここで、自らの悪意がちゃちなトラウマなどに根拠づけられるものではないことを高らかに宣言しているのだ。
  実際、ジョーカーには根拠がない。彼には指紋やDNAのレヴェルに至るまで、あらゆる過去の痕跡がない。彼には世俗的な欲望すらない。自ら金にも権力にも 興味がないとうそぶき、札束を積み上げて火を放ちさえする。彼が望むのは、人々が--とりわけバットマンが--その良心ゆえに葛藤し、苦悶する姿を眺めることのみ。これほど純粋に無根拠な悪が、かつて描かれたことがあっただろうか。少なくとも、ハリウッドのメジャー大作では前例がないように思われる。


ここで斎藤氏は大げさな物言いをしているが、悪を心理学化するかわりに神学化をしている。悪が無根拠ならば善もまた無根拠であり、根拠がないということは自由だということだ。善と悪は相対化され、気まぐれと偶然に犯される。暴君『カリギュラ』は気まぐれで人を殺し、気まぐれで人の命を助ける。

斎藤環は「これほど純粋に無根拠な悪が、かって描かれたことがあっただろうか」という。無根拠な悪は狂気である。ジョーカーの自我は崩壊しているのか。そうではない。たしかにかれの告白はデタラメだ。しかし、デタラメにも意味があることを発見したのはフロイトだ。ジョーカーは相変わらず神経症的な世界に住んでいる。

札束を積み上げて火を放ったからといって世俗的な欲望がないとか、自ら金にも権力にも興味がないとうそぶいたからといって、そのまま信じてはいけない。精神科医であれば常識であろう。斎藤環氏は、神経症だけではなく、統合失調症もまた了解可能であることを、ラカンに学んだという。無根拠な悪とは了解不能な悪であり、それは善と同じように、過去の経験(トラウマ)によって説明することはできない、人間の自由な投企なのだ(サルトルですw)。

この映画は善悪の相対性や悪の無根拠性を描いているのだろうか。私にはただ神経症の症候を並べただけの破綻した物語にしか思えなかった。

【追加】 コーエン兄弟監督の『ノーカントリー』に殺すか殺さないかをコインの裏表で決めさせる殺し屋がでてくる。もともとは、奪われた麻薬の代金を取り戻すための殺人だったのが、そのうち殺人そのものが目的になる。金を横取りした男に金の在りかを言わなければ殺すと脅し、殺してしまったら金の在りかが判らなくなるにもかかわらず、自白しないからと言って殺してしまう。そしてその男の女房を殺しに行った殺し屋は、いつものように、コイン投げで決めようと提案するが、女房は拒絶して、「殺すか殺さないか決めるのはあなただわ」というのだ。それで殺し屋は、コイン投げずに、女房を殺す。それは女房を殺すと夫に約束したからだというのだ。根拠のない悪は善に近づく。
 『海辺のカフカ』に出てくる猫殺しのジョニー・ウォーカーは、楽しみのためではなく、猫の魂で音の聞こえない笛を作るために猫を殺す。もう猫を殺すことに飽きたけれど、これは決まりだからやめるわけにはいかない。自殺も許されていない。このシジフォスの苦役から自由になるために猫探しのナカタさんに殺してくれと頼むという話がでてくる。
2009.10.21[Wed] Post 01:53  CO:0  TB:0  映画  Top▲

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